さて、ここから宇佐神宮側の巻き返しが始まる。ここでカギを握るのが、光明皇后ということになる。彼女は仲麻呂を深く信頼しており、同年(749)8月にはまさに仲麻呂のためといえる紫微中台を設置し、令外官であるその長官の紫微令に仲麻呂を任命した。これは、従来の皇后官職を改めたものであり、先ほど述べた鈴印も皇太后宮に置かれることになり、皇太后が政務を行うための制度だといえる。この機関を拠点にして、宇佐神宮の中央進出が活発になる。まず、同年11月に八幡大神禰宜外従五位下大神(おおかみ)杜女と主神司従八位下大神(おおが)田麻呂の二人に大神(おおみわ)朝臣の姓が与えられる(続日本紀)。さらには、同11月19日に八幡大神(続日本紀では天平20年からこの呼称)が都に向かうという託宣があった。これを受けて、同24日参議石川年足、侍従藤原魚名を迎神使に任ず。経路諸国に兵士百人以上徴発、前後駆除、殺生を禁ずるという措置がなされた。同12月18日、大神を平群郡に出迎えさせる。当日入京、宮城の南の梨原宮に新殿を作って神宮となし、その日より僧40人を招いて7日間悔過を行った。同27日、八幡大神の禰宜尼大神杜女は、紫の輿に乗って東大寺に出向き、大仏礼拝(天皇、太政天皇、皇太后、百官諸氏ことごとく礼拝)を行った。紫の輿というのは、天皇や皇后が乗る最高級の輿である。この時、八幡大神に一品、比咩神に二品の位階を奉った。左大臣橘諸兄が、神前で宣命を読み上げ、大仏造立に対する援助を謝した。翌天平勝宝2年(750)2月29日、八幡大神、比咩神に封戸・位田が授けられた。同年10月丙辰朔には藤原朝臣乙麿が八幡大神の教えを以て大宰帥となり、朝廷人事にも影響力を持つようになった。この怒涛の如き勢いで、宇佐神宮が八幡大神であるということが決まったといえる。
この八幡大神の入京は、東大寺の転害門についての挿話として残されている。その名の由来の説として、一族を率いて奈良に出向した八幡大神は、大勢の人々の迎えを受け、当時碾皚門(てんがいもん、高いという意味)と呼ばれていたこの門から東大寺の中に入った。そのとき、八幡大神は「今後はすべての殺生を禁断する。それを守ればあらゆる災害を転じて、福として与える。」と告げたことから「害を福に転じる門」すなわち「転害門」と表記、呼ばれるようになった、というものだ。もう一つの説としては、天平勝宝4年(752)4月9日の大仏開眼供養の開眼使である菩提が供養当日になかなか姿を見せないので、待ちあぐねた行基がようやく現れた菩提を手でかき寄せるように招き入れたという説があり、その場合は手掻門とつづられ、手掻会はその行列の再現をしたものである。ただ、行基は開眼供養の前に没しており、これはそのままの話としては受け取ることはできない(東大寺八幡転害会記)。いずれにしても、これは、どうも碾皚門という良い名前を貶めるような改名であるような気がしてならない。