文禄二年
なぜか天正廿一年で書かれている。確かに文禄への改元は十二月八日と言うことで年末ではあるが、今日の情報に敏感な『家忠日記』の著者がその情報を二十日以上も知らなかったと言うことは考えにくい。これは、先走って先に日記を付けていたことを指し示すのかも知れない。
正月七日、十三日、十六日連歌。廿三日昨年春中納言様つくしへ御出陣之刻たて候、云々、とある。中納言様は秀忠のことかと思いきや、これによると筑紫へ言ったはずの家康のこととなる。秀忠がわずか十四歳にして本当に権中納言という高位についたのか、と言うことを含め再検討する必要があるのだろう。廿七日には大納言様一段御機嫌之由候、として大納言様が出てくる。これは一体誰になるのだろう。又官位で混乱させようとしているのかも知れない。廿八日大納言様、廿九日中納言様が出てくる。
二月九日、十二日、十九日、晦日連歌。三月廿八日連歌。廿九日上州よしい東堂、くわんしう本光寺へ御越候て参候、鹿島へ参詣の刻、云々とあり、くわんしうはどこかわからないが、どうも本光寺は上州あるいは鹿島方面にあると言うことになっていそう。小見川からは全く反対の方向に当たり、しかも到底1日の移動範囲でもなさそうで、地理的に混乱させるためなど、とにかく地名については全く当てにならないことを示す良い例。
四月五日連歌。八日正佐多胡へ被越候、とある。三月十五日にも多胡保科弾正所よりこい三本音信ニ被越候、とあり、そして多胡は今の香取郡多古町に当たるとされるが、上に出てきた上州には前橋に大胡藩があり、この時期には牧野康成が入っていたことになっている。『家忠日記』が牧野氏を狙い撃ちにしたものであろうとは、最初の頃に少し書いたが、ここでもそれを狙って何かをやっていた可能性がありそう。廿一日、廿五日連歌。
五月一日、八日、十日連歌。十日につくし飛脚番事申来候の記事が出てくる。朝鮮出兵の最中とはいえ、家康も江戸に戻っているはずのこの時期に、九州とは関わりの無さそうな『家忠日記』の著者がつくし飛脚番を申付けられる理由はなさそう。しかも廿三日には太閤様御帰洛ニて、江戸中納言様近日御上洛之由、云々とある。秀吉が秀次に関白の座を譲り、太閤となったのは天正十九年とされるが、『家忠日記』ではその後も天正廿年八月十五日迄は関白様表記で、その日の記事で前関白様となり、同十月七日に初めて太閤様となる。そして、翌年の年号が天正廿一年と表記されていることを考えると、文禄への改元と関わって何らかの政変があったのではないかと窺われる。それは前回見たように、『家忠日記』の作者は暦の操作までして、知行の不法取得など様々な企みをしていた可能性もあり、そこで京都と東国(?)での情報のずれが発生し、その処理のために関白の秀次への譲位、その死、さらには朝鮮出兵などの話が後からいろいろと作られたのではないか。『家忠日記』が秀次の死とされる時期までしかかけなかったのも、そのあたりに原因がありそう。それはともかく、家康も太閤も筑紫にいない状態でつくし飛脚番というのは、『家忠日記』が話を限界まで拡張しすぎてもはや筑紫にいる誰かからの指示、ということにしないと話が通じなくなったことを示しているのではないか。
それでも六月一日にはまだのんきに連歌をしている。最初からいけるところまで行こうと腹を決めているのだろう。三日四日と東堂が出てくる。九日、十五日連歌。廿九日大窪十兵衛、彦坂小刑部つくしより被帰候とある。最初に飛脚を出したのが一月前之五月廿八日だと思われ、飛脚であっても筑紫への往復は難しかろうと思われるところ、この二人がどのような理由でいつつくしに行ったのかはわからないが、不審な感じはする。
七月九日、十三日、十八日、廿四日、連歌。廿七日普請ができて帰るという記事で、雨降りの上代までに傍点を付けた後、雨の記載なしで佐倉まで帰候とある。佐倉は知行には含まれていないようにも思われ、ここで又天気の具合によって上代と佐倉で分けたような感じを受ける。翌日改めて雨降、上代迄帰候、とあり、単なる書き間違いを装って、佐倉という地名を新たに作り出したのかも知れない。
八月二日連歌。九日九州名護屋へつかハし候鱸小吉帰候、大納言様御機嫌能候由申来候、とあり、六月に送った飛脚が帰ってきたとある。そうなると前月末の大窪、彦坂が帰ってきたというのは別の話となるか。大納言様は九州にいたことになる。いつからになるのかはとても追えないが、とにかく名前の使い分けで某大納言がまだ九州におり、そことのつながりを持っている、と言うことを権威の源泉にしていたように見受けられる。十三、十七、十九日連歌。十六日作倉の吉祥寺とある。佐倉の字を変えてまた混乱させようとしているようだ。さくらというのは当然桜につながり、音での使い勝手は非常に良い言葉だといえる。地名の話をにおわせながら途中で花の話にすり替える、と言うようなことで、話をはぐらかせながら進めてゆく、と言うことを行ったのではないか。廿五日、九州大納言様御馬近日中納候付而、江戸中納言様火急ニ御上洛之由候て、云々とある。これで大納言と中納言が別人であるとして、かつて中納言と呼ばれていたはずの家康が大納言となって九州にいるのだ、と言うように話をすり替えたのだろう。中納言の方は五月に近日御上洛之由としておきながら、三ヶ月も経ってから火急御上洛之由というのも、前回上洛したのが家康で、そのまま大納言となって九州に行き、それとは別の中納言が今回上洛するのだ、と言う話にしたのではないか。
九月二日、中納言様御上洛御暇請ニ作倉迄こし候、ととんでもないことが書かれている。中納言様がわざわざ暇乞いに作倉迄出向いてきた、と言うのだ。ここで作倉と言う地名を作り出した狙いが見えてくる。作倉には中納言様が暇乞いに来られるような誰かえらい人がいたに違いない、と言うことになるからだ。その後も中納言様と大納言様を使って様々な動きを勝手に作り出している。廿四日には大納言様御迎ニ作倉迄こし候、と十六日に大坂に着いたばかりのはずの大納言様を作倉にお迎えに行くと言うことで、作倉の場所が又わからなくなる。この典型的な常套手段は、『家忠日記』を読む時には注意しなければならないことだろう。廿九日連歌。壬九月三日、廿二日連歌。廿九日には江戸板倉四郎右衛門所より、大納言様今月末か来二三日時分にハ御下向候間、とある。このあたり、京と江戸を入れ替えて書くことで混乱させているのでは、と言う感じを受ける。
十月十七日大納言様去十四日ニ京都ヲ御出被成候由候、廿二日三嶋へ御着候、廿三日小田原、廿四日こい田、廿六日江戸、とこれによって今の地名の並びがほぼ確定したのだといえそう。十一月、空欄と読めないところが目立つようになる。廿八日連歌。十二月九日連歌。
(文)禄三年
正月はじめから闕失。十三日、十四日連歌。二月十二日大納言様ニ今日十二日ニ御上洛之由江戸より云々となってその後闕失。十九日小田原迄こし候。廿日豆州三嶋までこし候。廿一日駿州清見寺までこし候。廿二日島田迄こし候となり、その後三月二日まで闕失で京へこし候となる。大納言様ハよしのへ御越、とのことで、大納言様の付き人として上洛、と言う設定なのだろう。これは、結局の所、前年十月の大納言様江戸下向というのが自分のことであり、それまで『家忠日記』の著者は関東入りなどしたことがなく、妄想話を延々と書き連ねており、ここで実際に江戸入したことで、それまでの地名などを実際後に当てはめて、そして二月にはすぐに上洛、と言うことになったと言うことではないのだろうか。遠州以西の部分が闕失となっているのは、その部分は割としっかりと記録が残っていたので、何とも整理が付かずに後々段々消していったと言うことではないか。吉田や岡崎、という名も、ここに書かれていた記述に基づいて決められた可能性が高いのではないか。
三月太閤様大納言様の名前を出しながら普請が続く。この普請とは、関東下向の話を京で固めているのだといえ、それによって既成事実化していったのではないか。四月八日太閤様羽柴筑前所ニ御成候、と言うことで、太閤様と羽柴筑前は別人であるとしている。 その後は闕失を挟んで又普請が並ぶ。そして、日付不詳となって江戸に帰ったところで終わる。その間に秀次事件が起きているのは最初に書いたとおりだが、それに関わる記述は一切ない。