"何かを指し示す言葉がある"というのは、"その概念がその言語圏にはある"ことだと思っています。
その意味で、ソーシャルディスタンスがカタカナでそのまま輸入されているということは、それに当てはまるような日本語の概念がなかったんだなぁと思うことがあります。全世界共通語として新たに造成し、一斉に旗振りをしたかったんだろうなという側面も大いにありますが。
日本語はその意味で、けっこう柔軟な言語だなとよく思うことがあります。日本語が柔軟というより、日本人の気質としてそうなんだろうなと思います。さすが神道も仏教も織り込んだ宗教観。結婚式はチャペルで、ハロウィーンは渋谷で踊り狂い、人生の最期はお葬式style。
逆に、テレビを電視と訳した中国語はさすが負けん気が強いな、と驚いたこともありました。笑
そもそも、漢字にひらがなを組み合わせていくというのも、実に日本人らしい柔軟な感じがします。(個人的には好みです)
少し話を戻しまして、私たちにとってsocial distanceはちゃんと翻訳できているでしょうか。これは言語としてというより、概念としてしっかり浸透しているでしょうか、という問いです。
私は正直、事あるごとに「ソーシャルディスタンス!」と隔離される社会になんとなくディストピアを感じています。思考停止してただただソーシャルディスタンス言ってりゃいいという雰囲気は嫌じゃないですか。。?これがどこまで続くのかも見えない感じも。
だから、social distanceの概念がしっかり浸透していないんじゃないか、と思っています。
もちろん、感染防止の側面で一定の距離や対策を講じることは重要です。
でも、距離をとるにしてもいろいろ手段はあるはず。
「人から離れよう!」「お互い感染リスクがあると思おう!」と人々が叫び合う社会が21世紀の理想だったのだろうかということを、問い直してみても良いのではないでしょうか。
ただただ人と距離をとろうという意味でのdistance。
そこにsocialというニュアンスが入ってくることで、どう解釈が変わっていくか。
ここは割と、私たちが日本語に翻訳するときにデザインできる、あるいは、真の意味の(=未来あるwithコロナ社会を描くための)social distanceを編集するためのチャンスなのではないかと可能性を感じています。
日本語や日本人は、"わびさび"や"をかし"のようなとても曖昧な概念を好み、それが日本人の英語習得および外国人の日本語習得の高いハードルとなっていました。
しかし、この"距離はとらねばならないが、私たちは手を取り合って立ち向かっていかなければならない"、そんなビミョーな状況を言語化しなければいけないときこそ、割と日本語は活躍できるのではないかとふと思いました。
というより、「果たして適切なsocial distanceとはどういうものなのか」ということを、ただ隔絶すれば感染しないという横暴な解釈ではなく落とし込むことが、本来の私たちの社会の間合いをはかるヒントになる気がしています。
あ、"間合い"とかけっこう良い気がする。"間"を考えよう、"間"。それならソーシャルディスタンスより柔軟な概念を包含できる気がする。
てらけん