よく、「田舎暮らしをしているとモノが安くて良いよね~」という話をされます。確かに、都内で暮らしているときよりは生活コストが下がったことを感じます。
なんとなく、東京はモノが高くって、逆に田舎はモノが安い。それが当たり前のように思ってしまいます。
じゃあ、どうして田舎のモノは安いのでしょうか?
これをじっくり考えてみると、実は地方の問題も透けて見えてくるのです。今日はそんな点を考えてみたいと思います。
このモノが高いのか、安いのか。
私たちはある程度の当たり前のモノはいくらぐらいが妥当かを言い当てることができます。なんとなく、ペットボトルの水だったら100円ぐらいだし、ステーキを食べるなら高そうだし、金なんて庶民が持つモノじゃない。そういう感覚ってありますよね。
では、それ、いつからそんな当たり前になったのでしょうか?
水より金が高いって、それで良いのでしょうか?飲めも食べられもしない金が、どうしてこんなに高いのでしょうか?
もちろん、いろいろな理由があってそうなっているわけですが、基本は水の方が身近にすぐあって手に入りやすくて、金なんてなかなかお目にかかれないから、という感じですよね。蛇口をひねれば出てくるものと、地球上で探してもそんなに多くない金とでは比べ物になりませんよね。
水の方がたくさんあって、金はごくわずか。
しかも、金はそれほど貴重だということもみんな知っている。ほんのごく限られた人間しか持っていない金属、ということをみんな知っている。
だからこそ、欲しい。。!!
多くの人たちがそのように思っているわけです。
そしてその結果、金の価格は上がっていき、高いわけです。
要は需要と供給。
供給できる量より、需要の方が多くて、高くなってしまう。
逆に、水は供給量がとても多いので、安価になる。もちろん、水が貴重な砂漠地帯等では違うかもしれません。もしかしたら金より高価かも。。!?
これも需給ですね。
そう考えて見ると、田舎でモノが安いということは2つ考えられます。
モノが多すぎるのか、それとも、誰もモノを欲していないのか。
皆さんはどちらだと思いますか?
これ、言ってしまえば両方です。
特に食べ物関係。
ありがちな話ですが、隣近所からおすそ分けをいただいたり、誰かの家に行くと「これ持ってきな」と言われて持たされたり。我が家もだいぶ助けられました。とてもありがたいですし、素敵なコミュニケーションだなと思います。
みんな当たり前に土地・農地を持っていて、畑をやっています。もちろん自分たちが食べるためという側面もありますが、多くはやらねばならぬ状況で畑をやっています。本当はやめたい、という人もたくさんいます。
ここに割と面白い理由があって、田舎はだいたいみんなどこの土地が誰の所有かほぼ知れ渡っていることが起因しています。
もし、自分がやっていた畑をやめてしまうと、みるみる内にその土地は雑草だらけになります。緑があって良いな~とも思うかもしれませんが、やっぱり管理されていない雑草たちは汚いものです。
そうなると、「あそこの家は、代々受け継いできた土地をあんなにして」という噂がたってしまいます。すぐに犯人が特定されてしまうわけです。
それだけでなく、近隣の畑からすれば、雑草の種を蒔き散らす迷惑な場所が増えるわけなので、なおのこと罪は重くなります。
だから、やめてくてもやめられない。
でも、自分たちは年をとっていって食欲もそれほどなく、子どもたちもいなくなればなおのこと消費量は減る。
そうなると、当然、余るわけです。
夏にもなるとまぁ大変。
どこもかしこも夏野菜がとれ放題で、トマト・キュウリの無限ロンダリング。笑
そうなると、供給が増えながら、需要が減っていくわけです。
これが野菜だけに限らず、山菜やら魚介類やらでも起きてきます。
なので、当然食べ物は安いと言えるでしょう。
なぁ~んだ、おいしそうなものがたくさんあって良いじゃないか。
一見そのようにも思えるかもしれません。
ところが、ここにとても大きな問題点があります。
あれもこれもモノが余って安くなる。食べ物なんてもらうもの。
それが当たり前になってくると、スーパーにあるものは何でも高く見えてしまいます。「こんなもの、カネ出して買うもんじゃない」こんなセリフも田舎ではよく耳にします。
ほど良いところまではそれがいいコミュニケーションなのですが、それが行き過ぎると、【安い方が当たり前だ】が染みついてきてしまいます。
これが商売人にとってとても恐怖なのです。
本来のコストを積算すると、これぐらいする。でも、、みんなに1万円なんて言いにくい。。(1万円なんて取引、その地域内ではあまりしないから)
みたいなことが起きてしまうわけです。
田舎のデフレ圧力。これはかなり深刻な地方衰退の諸悪の根源です。
次回はもう少しその点を深掘りしてみたいと思います。
てらけん