大学1年の時に「英文学」の講義を取った。当たり前のことなのかどうなのかは判らないが、教室に集まった学生の大半は文学部生のようで、経済学部から参加しているのは僕ぐらいのものだった。
あくまで感じなので具体的にどうとは言いにくいのだが、彼らは僕が経済学部で遭遇する学生たちとちょっと感じが違った。そして、経済学部で経済学の話をしているのはほんの一部の学生でしかないが、教官が現れるまでの間、彼らはみんな、口々にずっと文学の話をしているのである。
「そうじゃなくてヘムはさあ…」
と、僕の前の列に座っている女子学生が言っている。
ヘムって何だろう? まさかヘモグロビンじゃないよね? と僕は思う。
聞き耳を立てていると、やがてそれがヘミングウェイのことだと判る。ふーん。僕は感心する。不思議に嫌味には感じない。そうこうしていると女性の教官が入って来た。
教材は Contemporary American Jewish Writers という短編集だった。その本で僕はジェローム・D・サリンジャーに出会った。そして捕まった。
『ライ麦畑でつかまえて』が最初に魅了した若者たちより、僕らはずっと下の世代だった。だから、僕はこの時点までサリンジャーという作家を知らなかった。教材に載っていたのは The Laughing Man(『笑い男』)だった。
後期の教材は同じくサリンジャーの Franny and Zooey(『フラニーとズーイ』)だった。『笑い男』と同様短編集『九つの物語(ナイン・ストーリーズ)』に収められている。
僕はこれらの話を”喪失感”とか何とかいうひと言では片づけられなくなった。そして『ライ麦畑』に進んだ。これが日本語で読んだ初めてのサリンジャーだった。そのあとフラニーやズーイなどのグラース家の兄弟たちを主人公にした所謂グラース・サーガのシリーズを貪るように読み続けた記憶がある。
何故、この人はこんなに書けるのだろう?──それが僕が抱いたシンプルで奥の深い疑問だった。
言葉で言い表せないものを言い表している。襞(ひだ)とでも言うのだろうか、この人は表からは見えない裏側の、しかも極めて複雑な部分を描けている。多くの人が何とも表現できなくてイライラしていることを、乱暴に単純化することなく、ありのままに掴み取って、それをちゃんと提示できている。
この辺りの読書経験が僕の現代アメリカ文学への入り口になった。そしてあれから随分時が流れた。
僕より若い世代はきっとサリンジャーなんて知らないのだろうなと思っていたら、僕より少し下の世代である小泉今日子さんが激賞しているのを読んだ。好きな人が好きな人のことを誉めてくれるととても嬉しい。僕らより後の世代もひょっとしたら順順にライ麦畑で捕まり続けているのかと思うと、なんか心強いような気がしてきた。
そうこうするうちに村上春樹訳の『ライ麦畑』が出た(邦題は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という、如何にも村上春樹らしいものになっていた)。それをきっかけに僕はもう一度野崎孝訳を読み直し、サリンジャーの原文で改めて読み、そして村上春樹訳で3度目を読み終えた。
村上春樹の訳でホールデン・コールフィールドが現代の若者に近い喋り方になった。これでまたライ麦畑で捕まる若者が出てくるだろう。
そして、柴田元幸訳の『ナイン・ストーリーズ』が出て、金原瑞人による本邦初訳の『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年』も今年発売された。
僕が最初にライ麦畑で捕まってから、すでに40年以上の月日が過ぎた。僕はこの畑の片隅で、若者たちが次々にサリンジャーに捕まえられて行くところをずっと見ていたい気分である。