
言葉というものが如何に論理的でないかということは、反意語・対義語の類を思い浮かべてみるとすぐに解ります。
例えば、「女」のつく言葉の対義語には「男」がつくはずですが、それが存在しないケースがかなりあります。
「女学生」「女医」「女教師(おんなきょうし)」に対して「男学生」「男医」「男教師」が存在しないのは、昔は学生・医者・教師というものは男性と相場が決まっていたからなのです。「女は勉強なんかしなくて良い」といわれていた時代が漸く終わり、進学する女性が増えてきた時点で初めて「女学生」という言葉が生まれたのです。
帝王も豪傑も男に決まっているので、例外を表わす言葉として「女帝」「女傑」があります。それに対して「男王」「男傑」という言葉はありません。
昔は「男優」という言葉もありませんでした。
俳優(歌舞伎役者)は全員男だったからです。歌舞伎などの伝統的演劇に対抗して「新劇」というジャンルが生まれ、そこで女性の役者が登場するに及んで、「女優」という言葉が必要になったのです。
そして、女優の数がどんどん増えて行くに連れて、「女優」に対抗する言葉として今度は「男優」という言葉が必要になったのです。今では「主演女優賞」「助演男優賞」のように賞のジャンル名として重宝されています。
未だに「男学生」「男医」「男教師」という言葉が存在しないのは、教育や医療の世界は演劇の世界ほど男女平等になっていないということではないでしょうか?
このように、「男」のつく言葉が少ないのは男性中心社会の裏打ちなのです。
「弁護士・作家・棋士」などと言えば男が相場と決まっていたので、女性の場合はわざわざ「女流」という冠をつけなければならないのです(一方「男流」という言葉は存在しません)。
言葉はそんな風に歴史を語ってくれます。
逆のケースもあるにはあって、「女郎/娼婦」に対して「男娼」、「看護婦」に対して「看護士」(今は男女とも「看護師」と書くのが正しいらしい)、「保母」に対して「保父」という言葉が誕生したのは、女性社会に男性が進出した証です(ただし、男娼を買うのは女性ではなく男性ですが・・・)。
言葉は社会の鏡なのです。そして、学校でかつて「父兄」と呼ばれていたものが「保護者」と言い換えられ始めたように、社会の変化に伴って言葉も変遷して行くのです。
もう一つ別の事例を。

「茶髪(ちゃぱつ)」という言葉があります。これは「金髪」という言葉に対抗してできたと思われます。そして、この「金髪」という言葉も、大昔日本人が西洋人に出会うまでは存在しなかったはずです。
髪の毛は黒いものと決まっていたのに、突然金色の毛髪をした人種に遭遇してびっくらこいて「金髪」という表現ができたのでしょう。
それが証拠に「黒髪(こくはつ)」という言葉はありません。髪は黒くて当たり前なのでわざわざそういう表現を必要としなかったのです。「くろかみ」と読ませるケースはありますが、これは単に「黒い髪」のことではなく、(乙女の)黒い髪が艶っぽくて魅力的であることを形容する表現です。
年をとって黒い髪が白くなってきた場合には「白髪(はくはつ/しらが)」という表現を充てます。真っ白ではなく、黒がほどよく混じっていれば「銀髪(ぎんぱつ)」と呼ばれることもあります。これらの表現が存在するのも、あくまで白髪・銀髪が老人特有のものであり、すなわち少数派であるからなのです。
さて「茶髪」ですが、これは本来「白髪(はくはつ)」と同じように「ちゃはつ」と読むのが正しいはずです。「髪」の読みは基本的には「はつ」で、直前に n (ん)の音がある場合は h が p に変化して「ぱつ」になります。
このことが解っていなかった当時の若い人たちが「ちゃぱつ」という造語をしてしまったのです。日本語の発音の原則を踏み外して。
でも、そんな原則は彼らにとっては何の意味もありません。「きんぱつ」だから「ちゃぱつ」という単純な入れ替えをしてみただけなのです。つまり、これは「白髪」ではなく「金髪」を意識した表現なのです。
言葉というものはいろんな事情によって、決して論理的ではない形で変化して行きます。でも、そこが言葉の面白さであって、言葉のダイナミズムなのではないでしょうか。
文法は永遠に社会を追いかけ続けて行くしかないんですね。










