既存金融でもコンソーシアム、地域通貨同士が手を繋ぐのもコンソーシアムなら、どこが違うのでしょう。
そろそろこの辺から独断と偏見に満ちた見解を出していきます。
経理事務すら経験のない金融無知がチラつくことは自覚しています。間違いなどありましたらご指摘いただけたら嬉しいです。
・BIは基本的人権の尊重を金融に組み込むこと
・相互フォローの精神で支え合う
・地域通貨とBIは相性が良さそう
・コンソーシアム型は生物の必然
・自然のシステムを模倣する
今後提示する全ての中には常に自然の模倣が通奏低音のように流れます。
ただし通貨は人間社会の道具。なので、自然のシステムを模倣はするのですが、あくまで模倣です。本物そのままではありません。そして、社会は有機的に変化するもの。今日の正しさが明日も正しいとは限らないです。理想に全振りせず、現実に合わせた落とし所を見つけたい。
それでは本題の既存金融との違いを2つ説明します。
地域通貨の多くは無利子かマイナス利子です。
マイナス利子通貨の発端は、ドイツの経済学者シルビオ・ゲゼルが、著書「自然的経済秩序」(1914年初版)の中で提唱したものです。あらゆるものが減価するのに通貨だけが減価しないために金利が正当化されていることを問題視しました。1930年代にオーストラリアのヴェルグルという町でスタンプ紙幣として発行されたのは有名です。
小説家のミヒャエル・エンデは、通貨が利子で増えることについて「存在していなかった利子分の金は人か自然から奪うしかない」「成長は無から来るのではなく誰かが犠牲になっている」と話しました。
このような考えに共感する人々の暮らしの中で地域通貨は育まれてきました。
(ただし、ゲゼル自身は国家以外が管理する通貨には反対し、国家が責任を持って管理しインフレもデフレもなく流通する通貨制度を理想としたそうです)
では無利子とマイナス利子どちらが良いのか。また、マイナス利子なら基準は何に求めるべきか。
個人的にはなんとなく無利子の方が使いやすそうです。けれどもゲゼルの言うようにあらゆるものが減価するのであれば、マイナス利子の方が自然に近いのかもしれません。(正確にはマイナス利子と減価は違う *後述)
かつて江戸時代に通貨としても使われた米を例に見ると、確かに、時間の経過とともに味は落ち、いずれ食べられなくなります。鮮度を保つためには手間をかけなくてはなりません。それでも劣化のスピードを遅らせるにすぎない。ですから翌年また種籾を撒いて育ててつないでいくわけです。こうしてサスティナブルになるのですね。
_φ(・_・ 命をつなぐ行為はサスティナブル
とはいえ、そもそもあらゆるものが減価するのは本当でしょうか。以前は疑いを持っていませんでしたが、少し前に、ある人の文章を読んでちょっと疑問が湧いたため、考えを練り直しました。特定の視座と視野からは価値が減っているように見えても、実は姿を変えているだけでエネルギーは減っていないのではと。
_φ(・_・ 米を"食べる"目的の中に閉じ込めておくのが価値の保存≒通貨
*手をかければしばらく保存できるが少しは劣化する(劣化は物事と環境と手のかけ方によって様々)
*劣化に伴い放出されたエネルギーは"食べる"目的の外へ移動するだけで消滅はしない
とりあえずここまでにして次に進みます。
基本的人権ですから価値は個人のものです。定量化することは難しいけれど確かにあるもの。人と人がいるから支え合うことができる。
説明するまでもないですね。
これを原資にする、と言いたいのですが…でもなんか引っかかりませんか。お金にするなんてモヤモヤしませんか。モヤモヤしますよね。だからって、お金がなくても支え合って生きていたファンタジーのような世界は、、身近に残っていますか?
なのでモヤモヤしながらも一生懸命考えました。
人の価値は他人が決められるものではない。自分が思う自分の価値の中から「社会生活を送るために必要な分だけ取り出したもの」を、この際わりきって全員同額と見做しちゃえ(背負い投げ!)というのが私からの提案です。
だって、政府にお金を渡して再配分されても、結局庶民が働くだけですもん。
突飛と思われるでしょうか。肯定されるか拒否されるか、正直分からないです。
「同額と見做す」っていう荒技をかけちゃったから、「必要な分だけ必要に応じて使う」部分で、なるべく無駄なく流れる設計を工夫します。
勇気を出して書いたら力尽きちゃいました。続きはまたあらためて。
追記 2019.10.26
*日本語で地域通貨を語る際、マイナス利子を減価と表現するのを見かけます。これはゲゼルの文章が翻訳された際の影響かもしれません。(調べてはいません。)
個人的には、減価=価値が減ること、マイナス利子=貨幣の数量が減ること、をしっかり分けるべきだと考えています。