前日の記事『太平洋戦争で、評価する能力でもアメリカに惨敗していた話』を、今日になって読み返して思ったのですが。
ちょっと書き方がわかりにくかったかなぁー、と。
この記事を要約すると「既に得られた情報を良い情報として評価し採用できる人物が、その能力を正しく評価されていたので指揮官となっていた」となるのですが、より言いたかったのは後者の「人事での正しく評価する能力」でした。
今現在は、人事の評価とは「適材適所」か「適所適材」がほぼ当たり前になっていますが、たまーに「論功行賞」なところもあります。
「論功行賞」とは、その人の功績にふさわしい地位をご褒美のように与えるやり方ですが、これで失敗する場合としては「個人ではものすごい数字を叩き出せるセールスマンが、人の上に立つ立場になると人間力が乏し過ぎて、その組織が壊滅する」というのが考えられます。
このような場合、セールスマンに対しては多額の報奨金などで報いて、人の上に立つ地位には置かない方が、本人と会社の双方に利益があると考えられます。
というわけで、上記リンク先の記事で最も私が言いたかったのは「年功序列はないやろー」でした。
って、これはかなり昔の話でしたけれども、サラリーマンで「給与の査定がおかしい」などの話が出てくることは今でも珍しくはないですが、こういうのも「会社または上司の評価がおかしい」という評価する能力の話に含まれるでしょう。
で、上記リンク先の記事内で私は以下のように書いていました。
・労働者を売買取引に限らない場合は「プレイヤー」であり「能動的に動く人」
つまり、日本人がありがたがっているのは、労働者を含めた「プレイヤー」であり「能動的に動く人」ではないかと。
さらに、この「プレイヤー」であり「能動的に動く人」をありがたがるのは何故なのか?
答えは「自然災害が多いから」だと私は考えています。
災害があった場合は人命救助や復興など、とにかく人力が大活躍する状況になります。
今以上に発展しどんなに世の中が便利になったとしても、災害の規模や被害が大きい場合はその分インフラが破壊され、まるで使い物にならなくなりますから。
そんな努力や根性も含めた人力が大活躍する時は、もちろん「能動的に動く人」がありがたがられるわけです。
「ほほぅ~○君の動きは良いねぇ~。おっ、△君もなかなかだねぇ~」
という口だけしか動かさない人は、嫌がられて当然です。
で、この「能動的に動く人」がどのくらい動いたのかというわかりやすい目安の一つが、時間です。
というのも限られた時間内でどのくらい動いたのか、というのを推し量るのは難しいことですから。
物を移動させるにしても、その物が重いのか軽いのか、軽いけどたくさんあって何往復もしなければならないのか、あるいは動かさなければならない距離はどのくらいだったのか、などなど。
いろいろ考えて比較検討する必要がありますから、より難しくなってしまいます。
というわけで、より簡単で誰もが容易く納得する「たくさんの時間、その仕事に従事した」というところを評価すると「年功序列」になると。
先ほどの「論功行賞」と合わせて、これらは「その人物の過去を評価している」という言い方もできるかと思います。
それに対して「適所適材」と「適材適所」は「こういう仕事」または「こういう人物」だから、その人事を行うと「これから先にこうなるだろう」という未来の話が入ってきますよね。
もちろんこれらの人事でも、その人物の過去の功績が評価の対象ではありますけれども。
災害時は「復旧させる」という、すぐに達成しなければならない目標があります。
この場合は目先のことしか考えられないのは当たり前だし、目先のことに全力を尽くすのはむしろ褒められるべきことなんですよね。
そしてそのような災害はいつ起こるかわからないし、日本は世界的に見ても災害の多い国です。
(「一般財団法人国土技術研究センター」にもこんな記事があります)
まぁ、そんなわけで、労働者を含めた「プレイヤー」であり「能動的に動く人」に対しての評価が、極端に集中してしまう国になってしまったのではないかと。
(いや、優秀な労働者を含めた「プレイヤー」であり「能動的に動く人」の評価が高いことは良いんですよ?
それがあまりにも集中し過ぎて、評価できる能力を持つことや、評価できる能力を持った人が軽んじられているのはダメじゃないか、ということが言いたかったのです)
余談ですが、アメリカの会社では「予想よりも遥かに良い数字だったら、逆に怒られる」らしいです。
何故なら「予想の数字がいい加減だからこうなる」という理由とのこと。
日本だったら「ただひたすらに褒められて喜んで終了」なんですけど、えらい違いですよね。