そんなことない、めーっちゃめっちゃ要りますよ。
要らないと言うてる人は、使い方がわかっていないだけでは?
ただし「使い方がわかっていない」人の中には、残念ながら教えている先生の中にもおられるでしょうね。
(ちなみに、かつて高校の社会科教師だった私の母親はその典型でしたが、この話はまた後日)
それとあと、中にはホンマに要らないところもあります。
例えば「ラ行変格活用の動詞(「あり」「をり」「はべり」「いまそかり」)の暗記」とか。
あんなものは検索すれば出てきますから、確かに今は要らんよねと私も思います。
というわけで、ここではその「使い方」についての話をしたいと思います。
題材は漢の劉邦と天下を争った英雄である項羽という人物の、教科書に載っていた「四面楚歌」と載っていなくて受験勉強だか模試だかで存在を知った(多分)「鴻門之会」の話です。
秦の始皇帝が崩御し、混乱した中国を再び統一しようとした二人の人物がいました。
後に漢の高祖となった劉邦とその劉邦に敗れた項羽ですが、今回は項羽の話です。
以下、マナペディア様の記事より原文と現代語訳を引用させて頂きました(書き下し文は省略)。
◎その一、四面楚歌(項羽の最期)◎
「史記『四面楚歌』(項王軍壁垓下〜)わかりやすい現代語訳・書き下し文と解説」より。
力抜山兮気蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可奈何
虞兮虞兮奈若何
「私の力は山を引き抜き、気力は天下を覆うほどであった。
(しかし)時勢の利は(もう我々には)なく騅は進もうとしない。
騅が進もうとしないのをどうすることができようか、いやできない。
虞よ虞よ、お前をどうすればよいのか、いやどうしようもない」
~~引用はここまで~~
先ほども書きましたが、この話は教科書に載っていて思いっきり授業で教えてもらった記憶があります。
漢文の授業では、読むことができて内容がわかることが目的とされています。
かつ優秀な国語履修者の条件としては「教養のあること」を挙げられることが多く、それは「正しく鑑賞できること」です。
「正しく鑑賞」するということを言い換えると、作品そのものを愛することではないかと思います。
そしてこの時の先生も優秀な方で、この作品を「抒情的に捉え、正しく鑑賞」していました。
まもなく最期の時を迎える稀代の英雄、傍らには彼を愛する絶世の美女……ドラマですやん。
しかし、以下の話を知っていると、また違った感想を持つ人が多いのではないでしょうか?
再び、引用させて頂きます。
◎その二、鴻門之会で范増に劉邦を殺すように言われた(けど、応じなかった)話◎
「『鴻門之会・剣の舞』(沛公旦日従百余騎〜)わかりやすい現代語訳・書き下し文と解説」より。
范増数目項王、挙所佩玉玦、以示之者三。
項王黙然不応。
「范増はたびたび項王に目配せをし、腰につけた玉玦を持ち上げて、項王に(沛公を殺すよう)何度も示しました」
(※別解釈:三度を「三回」と訳すものもある。)
項王は黙ったままこれに応じようとはしませんでした。
◎その三、鴻門之会で范増が劉邦を殺すように言った理由◎
「『鴻門之会・項羽大いに怒る』(楚軍行略定秦地〜)わかりやすい現代語訳・書き下し文と解説」より。
沛公居山東時、貪於財貨、好美姫。
今入関、財物無所取、婦女無所幸。
此其志不在小。
吾令人望其気、皆為竜虎、成五采。
此天子気也。
急撃、勿失。
「沛公が山東にいたときは、財貨をむさぼり、美女を好んでいました。
(しかし)いま関に入ってからは、財貨を取ることはなく、女性を寵愛することもありません。
これは沛公の志が小さいところにはないということです。(財産や女性ではなくその志は天下にある。)
私が人に、沛公の気を望見させたところ、みな竜虎の形をしていて、五色の綾をなしていました。
これは天子の気です。
急いで討ち取ってしまいなさい、決して逃してはなりません」
~~引用はここまで~~
というわけで、この話を知っていたら以下のように思う人続出だと思います。
「他人のせいにするなぁー!(←いや、馬とかだけど)」
自分の力はすごい、山を引き抜いて天下を覆うほど(だから、自分は悪くない)。
悪いのは何かと言えば、時が悪い、馬が悪い……って、いや、ホンマにそうか?
そもそも范増の言うことを受け入れていたら、こういう結果にはなっとらんやろ。
そして最も大事なのは「この話(=情報)を自分の人生で、如何に上手く使うか」ということであり、このことを各自が学び採らなければならないのです。
この話でわかるのは「全部他人のせいにして一切反省しない人はこうなる」ということではないかと(心の中では自分のせいだと思ったが、時すでに遅しで言ってもしゃーないから言わなかった、という可能性もあるけど)。
そこで、私は思うのです。
これ全部教科書に載せて授業で教えたら良いのではないかと。
そして敢えて連続させずに、間に別の話を入れる形にしておくと。
何でかと言うと「情報を保持する」ということを学ぶためです。
間に別の話を入れると、忘れる(=情報を保持できない)ということが起こりやすくなりますから。
ってことで、情報を上手く使うために必要なのは以下の三つ。
一、情報を得る
二、情報を保持する
三、ここぞという場面(時と場所)で使う
この中で、インターネットがインフラ化するまでは一番が最も難しいことでした。
とはいえ二番も大事ですので、だから「メモを取れ!」て言われていたわけです。
そして今、これからの世の中では最後の三番が最も大事でかつ難しいことなのに、そのことに気付いている人は少ないのではないかと思います。
文系の学問、例えば国語とか社会科、例えば哲学とか歴史とか、そういうものは「単なる教養であり実用的ではなくて、お金にならない」という理由で日本では軽視されてきましたが。
言い換えると「ここら辺には実用的ではない情報が満載である」とも言えます。
その情報を如何にして有益なものに変えて使うのか?
そこですよ、そこ、めっちゃ重要だと思いませんか?
ではここで、別の角度から別の話をします。
このことでわかるのは、項羽は「一人の武人としては素晴らしい能力を持った人物だった」ということでした。
しかし人の上に立つ立場の人物は、それだけでは足りない……というよりも、逆に「それは必須の能力ではない」と言えます。
項羽に勝った劉邦を見ればそのことがわかります。
劉邦は武人としての能力は低いのですが「人間的な魅力があり、彼に力を貸そうとする配下の武将が次々と集まり、その武将の使い方も上手かった」という人物ですから。
戦に関する話では、今でも参考にされることのある『孫氏の兵法』の方が有名ですけれども、他にも探せば何ぼでも出てくるでしょう。
漢文というものは、我が国ではかなりの昔から学ばれてきたものでした(平安時代の「三船の誉(才)」という話もあります)。
なのに何故、太平洋戦争でミッドウェー海戦の指揮官を年功序列で配置する、ということをやってしまったのでしょうか?
それに対して、歴史の浅い国であるアメリカが徹底した合理主義を用いることでそれを克服し、国益を確保し続けているのとはえらい違いではないかと。
(この話にご興味ある方は、以下の過去記事もよろしくお願い致します)