というわけで、今回は哲学者カントの「コペルニクス的転回」について。
先にお断りしておきますが、深く学びたい場合方はKTAG様のブログ記事『哲学の考え方を変えたカントの認識論~コペルニクス的転回~』がおすすめです(すみません、上手く貼れませんでしたので文字リンクで失礼します)。
ここでは、ものっすごい浅い内容にしか触れていませんので、ご注意を。
というわけで、あらためて哲学者カントの「コペルニクス的転回」について。
実は以前、HiÐΞの以下の記事でそのことに触れていました。
該当箇所を以下、引用します。
「コペルニクス的転回」とは、哲学者のカントが「自らの哲学が従来の哲学を逆転させたこと」を「コペルニクスが従来の天動説を否定し地動説を唱えた」ような、非常に大きな発想の転換である、としたことです。
そのカントの言う「コペルニクス的転回」とは「認識(主観)が対象(客観)に依存するという従来の説に対し、対象(客観)こそ認識(主観)により構成される」というものだとか。
(コトバンク様の百科事典マイペディア「コペルニクス的転回」の解説を参考にしました)
例えば、お皿の上にケーキ(対象物)があったとしますと、それまでの哲学では“ケーキがそこにある。人がそのケーキを見たからケーキがあると認識する”ということで「ケーキという対象物が存在→人が認識(=物が先)」と、考えられていました。
ところがカントは“人が見て、ケーキがそこにあると認識する。認識したからこそケーキがそこにある”と、つまり「人が認識→ケーキという対象物が存在(=人が先)」と考えたのです。
以上です。
この時は例としてケーキを挙げていましたが、今回はアイスクリームとします。
私たちはコンビニ等で売っているアイスクリームを見て、それがアイスクリームだとわかります。
例えばハーゲンダッツ等のカップに入ったアイスクリームを買って食べようと思って、円形のテーブルの上にぽつんと一つ置いたとしましょう。
それを昔日本人、例えば平安貴族が見て「あっ、アイスクリームがある。美味しそうー」などと思うでしょうか。
決して思うことはないでしょう。
何故なら、わからないからです。
その時代は天皇陛下ですら、真夏に微妙な味のかき氷を食べるのがせいぜいだったからです。
(この話にご興味のある方は、こちらの記事もどうぞ)
というわけで、この平安貴族はテーブルの上に「アイスクリームがある(存在する)」という認識をすることはできませんけれども。
恐らく「冷たくて円筒型をした何かが存在する」というところまでは、認識することが可能でしょう。
手に取って触る、持ち上げるなどをすることで。
(何の説明もないままに食べる猛者はいないのではないかと)
ただしその平安貴族でも人によって、どこまで認識できるかは異なります。
つまり、わからないものは怖いし触りたくないという理由で、テーブルの上に一つだけ置かれたアイスクリームを「遠くからただ眺めるだけ(近寄らないし触りもしない)」という人もいるかと思います。
その場合は、テーブルと置かれたアイスクリームを一体のものと認識するので「脚のついた円形の平たい板の何かの上に、円筒型の何かがついている」てな感じになるでしょう。
そしたら「円筒型の何か」という存在すら認識できていない(認識できない=存在しない=ない)状態となるわけです。
というわけで、ここで私が言いたかったことはですね。
このアイスクリームをアイスクリームとして使う、即ち「食べる」ということができるのは「アイスクリームだと認識している=ある」状態だからこそ、ではないかと。
この「アイスクリーム」を「情報」に置き換えると「その人によって得られる情報が変わるし、使えるかどうかも変わる」という話にも応用できそうですよね。
……ちとムリヤリ感ありますけども。