
昨日にXに投稿した古墳のお話。

何故、蒲生君平がそう名付けたのかについて。
産経ニュース様の以下の記事を見つけました。
該当箇所を引用致します。
墳丘を真横から見た姿を、中国皇帝の遺体を運ぶ「宮車(きゅうしゃ)」に重ね合わせたという。
馬が引く長い柄の部分を前方部、ひつぎを納めた天井の丸い車本体を後円部と解釈し、前方部と後円部の接続部にある「造り出し」を車輪とみた。馬が引く側が前になるため「前方後円墳」と呼んだ。
中国には「天円地方」という宇宙観があり、天は円、地上世界は方形と考えられた。天に還(かえ)る被葬者が後円部に埋葬されるという、前方後円墳の構造とも合致する。
引用は以上です。
つまり見た目でその名前を付けたのであって、古墳時代の人々にとっても前方部が前だったのかどうかはわからない、とのこと。
ですが、学校で習う時は円墳が上(こちらが前と思わせる状態)の「鍵穴みたいな形」がお馴染みではないでしょうか?
これは何でなのかと思ったら、最大の前方後円墳である仁徳天皇陵を上から撮影し北を上として配置すると、少し斜めの鍵穴みたいな形になるわけです。
地図で言えば上が北になるから、これを真っ直ぐにしてもうこれでいーじゃん……と、なったのではないかと推測しました……が、本当はどうなんでしょうね。
ちなみに、私のが子供の頃は仁徳天皇陵と習いましたが、今は「大仙陵古墳」または「伝仁徳天皇陵」と呼ばれているそうです。
古墳は仁徳天皇のものではないかも……で、このように名前を変更されたようです。
えー、びっくりー。
と言いたいところですが、もっとびっくりしたことがありました。
聖徳太子も習わないらしいですよね。
昔、高額のお札にまでなった人なのに。
今は「厩戸王」で習い、聖徳太子の功績は「推古天皇・蘇我馬子・厩戸王の三者の功績を一つにまとめて付けられたもの」とされているそうです。
何故そんなことをしたのかと言えば、後の時代の政治的なものが理由のようですが、ここまでの話でも「蘇我氏である蘇我馬子の功績を闇に葬りたい」という動機があったよねーというのは、何となーく見えてきますよね。
さらに言えば、蘇我馬子には善徳という長男(次男が蝦夷)がいて、馬子の功績とされているものが実は善徳によるものだという説もあるそうです。
(だとすると、本当に闇に葬られたのは善徳やん、て話にもなるかと)
……そういや、大化の改新も今は乙巳の変だっけな……。
何だか「仁徳天皇陵」が「伝仁徳天皇陵」になったぐらいは、大したことないような気がしてきました。ははは。










