弟の通夜はこちらにも書きましたが、核になるのは下のリンク先の記事です。
情報の使い方について、ちょっと前に以下のような記事を書いていました。
結論から申し上げますと、私の母は知識(情報)の使い方が間違っていたのではないかと。
私の母が持っていた知識を、母自身は「仕事をするためのもの」だと、それ以外の目的はないものだと考えていた、ということです。
しかし、使い方によっては、息子の自殺を阻止することができたかもしれない、と。
今回の記事はそういう話です。
私の母は高校の社会科教師でした。
教師としては優秀な方だったと思います。
その地元では女子が進学する最も名門の大学を卒業し、本が好きで豊富な知識を誇り、進学しない生徒の多いクラスでも授業に決して手を抜くことはなく(母曰く、就職後にやっぱり進学したいと思うかもしれない、とのことで)、教えること自体についても決して下手な方ではなかったと自負していました。
そしてその豊富な知識こそ、母が他の社会科教師と差別化できるところだと。
それ故に受験生の質問には何でも答えることができ、それ故にその受験生を合格に導くことがより容易くなると。
母はそのように考えていたと思います。
今回の知識(情報)は↓こちら↓です。
以前、この記事に使った画像を加工したものです。
マックス・ウェーバー(ヴェーバー)の「社会的行為」を図にしたものですね。
下部の赤字が何で日本とフランスなのかと言いますと、ラグジュアリー大国であるフランスを調べているうちに以下の記事を見つけたからです。
上記リンク先の記事では「(ひきこもりを)本人の生き方として肯定的にとらえ、そこから何かポジティブなものを見いだそうと考える傾向があります」と書かれています。
ただしこれは良いことだけではなく、それ故「問題として提起されるのが遅れ、大きな問題となってから発見された」という記事も拝読したことがあります。
一番上の核になると書いた記事では、情報の使い方と以下のように書きました。
1,情報を得る
2,情報を保持する
3,適切な時や場合に、適切に使う
ここで当時の私と母に当てはめてみたいと思います。
まず私の場合は、1~3番まで全部「×」ですね。
そもそも知識がない(=情報がない)から論外となります。
母の場合、1番は現役で教えていた時はあったでしょうが、定年になってから忘れていた可能性もあります。
忘れていた場合、1番のみが「○」で2~3番は「×」となります。
そして忘れていなかった場合、1~2番まで「○」となるわけです。
もしも、そうだったのならば。
ここまでは、できていたのに。
後は「使う」のみ、だったのに。
母は、この知識を使うことができませんでした。
弟の最期の問いは以下です。
「病気は治らないし就職もできない、生きる目的が見つからない、これから生きる目的は何にすれば良いのか?」
母は社会科教師の知識を使い、以下の答えを返すことができたはずです。
「目的合理的行為だけではなく、価値合理的行為にも目を向けるべきだ」
もちろん、この答えにも弟が納得しないという可能性もありますけども。
しかし同時に、納得して自殺を回避した可能性もまた、否定はできません。
いずれにせよ、私は思うのです。
私の母のように「今の仕事をするためだけに必要な知識」としか認識していないものが、実はそうではなくてもっと大切なものだと。
そのことに気付いていない日本人は、ものすごく多いのではないでしょうか。
日本の損失を回避する、またはより豊かにするものを、たくさん持っているのにもかかわらず、その使い方を知らない……いや、その使い方を知らない、ということすら知らない……のではないでしょうか。
自然や歴史に文化……のみならず、人の持つ教養などもその一つです。
人道的には問題がないのに従来の常識とは違うという理由だけで、SNS等で簡単に他人を叩くことができるのは何故なのでしょうか。
「人にはそれぞれ教養というものがある、自分の教養はこれであり、他人にも自分にはない教養がある」
そのことを知っているのなら、そう簡単に人を叩くことはできないはずです。
いずれにせよ、これからメタバースにWeb3.0の時代が突入するわけですが。
リアルな物よりも、抽象的な概念や観念、つまり人の考えなどがより重視されるようになるわけですから。
その考えを生み出す人もまた、大切にしなければならないのではないでしょうか。