ふたり目のおばあさんは、そこで、口を閉じました。足をくずして、また組みなおしました。こてんと首をかたむけ、だまっています。
「どうしたの、おばあさん」
母親は、ひと膝のりだして、聞きました。
「ほ、ほ、ほ。忘れてしもうた」
「そんな。こんなところで終わっては、いけませんよ。まだ、はじまったばかりではありませんか」
「ほ、ほ、ほ。今日は、ここまで、また明日」
「また明日、おばあさんが来てくれるというのですか」
「いいや」
「じゃあ」
「まあ、落ち着きなされ。お話は、逃げないよ」
ふたり目のおばあさんは、ひとり目のおばあさんが言ったことを繰り返すように、
「わしのすぐあとから、わしの妹が、同じ道をたどって、旅をしておりますのじゃ。
わしの妹は、わしにそっくりでの。わしと同じように、お話を売っておりますのじゃ。
明日、今日と同じ時間にここを通りかかり、きっと、同じように、休ませてくれとおねがいするでしょう。
そうしたら、妹は、同じように、お話をお聞かせして、休ませていただいたお礼をいたします。
つづきを聞きなされ。
妹は、わしの話したその先を、すらすらと語ってみせるでしょう」
と、母親に言いました。
母親は、
「きっとですね。きっと、お話のつづきが聞けるのですね」
と念を押して、ふたり目のおばあさんを送りました。
「あなた、明日も、ですって」
と、母親は、鬼のゆるしを得ておこうと思いましたが、
「明日も、来るのか」
と、鬼のほうから先に、母親に声をかけました。
「ええ。おばあさん、そう言っていましたよ」
「そうか」
母親は、今度は、それがあたりまえのような気がしたので、あまり変だとは思いませんでした。
「扇丸は、十歳になっておりました。
母親の面影をうつして、若い娘と見まがうような、うつくしい少年となっていました。
お城のものたちは、男でさえ、扇丸を遠目に見ただけで、はあ、とため息をつくほどであったといいます。
「十五、二十ともなれば、女はほうっておかんだろう」
「まちがいのないようにしなければ」
「女を近づけてはならん」
「いまから、気をつけておかねば」
「いまから、悪い遊びを覚えぬように」
扇丸は、男と女、ということを思いはじめました。
男がいる。
女がいる。
男は、女をもとめるらしい。女も、それにこたえるらしい。どういうことなのか。
そして、自分は男なのだと知っていました。女。女を、扇丸は知りたくなりました。
「鳥よ」
「なんだ」
「おしえてほしいことがある」
「女とはなにか。そうだな」
「そうだ」
「生きる、死ぬ。そのふたつでは、はかり知ることが少しむずかしい。それは、愛ということだ」
「愛か」
「そうだ。大切に思うこと、守りたいと思うこと、そばにいたいと思うこと、それらのすべてであって、また、どれでもないようなもの」
「むずかしいな」
「ときには、にくむことも、そのひとつなのだ」
「分からないな」
「おまえは、愛を知らないか」
「知らない」
「女はいないか」
「いない。そういえば、あまり、見たことがないな」
「それでは、おしえてやろう。
愛するということ。
愛されるということ。
どちらがいい」
「どちらかひとつか」
「そうだ」
鳥かごを目のあたりまであげて、扇丸は、言いました。
「愛される、を知りたい」
「いいだろう」
かちり、ことり、かたり、と、なにかが音をたてました。なにかが、さっきまでとはちがう、と感じました。
かちり、と、碁石をそこに置いたようで、ことり、と、箸がころがったようで、かたり、と、歯車がかみあったよう。
扇丸は、このときは、あまり考えたりしませんでした。愛する。それは、いつでも自分のやりたいときにできることだと思ったのです。
十歳の扇丸に、妻ができました。
姫は、遠い遠い親戚のお城からやってきました。扇丸は、その姫に会ったこともありませんでした。扇丸にはなにも知らされずに、殿さま同士が勝手に決めたのは、言うまでもありません。
姫は、ふたつ年上の、十二歳でした。
「あなた」
と、姫は、扇丸に声をかけました。
「あなた、花が、きれいですねえ」
「うん。そうだな」
「あなた、月が、きれいですねえ」
「うん。そうだな」
「あなた、もみじが、きれいですねえ」
「うん。そうだな」
「あなた、星が、きれいですねえ」
姫は、扇丸の横顔に、いつでもこうして、話しかけるのでした。
扇丸は、姫が自分のことを愛していると分かっています。が、どのようにこたえていいのか、それは、とてもむずかしいことのように思われました。
姫のことは、大切でした。守りたい。そばにいたい。それらのすべてではあったでしょうが、それ以外のなにかではなかったようです。
扇丸は、愛することをうしなって、愛されるということを知りました」
三人目のおばあさんは、そこで、口を閉じました。足をくずして、また組みなおしました。こてんと首をかたむけ、だまっています。
「どうしたの、おばあさん」
母親は、ひと膝のりだして、聞きました。
「ほ、ほ、ほ。忘れてしもうた」
「そんな。こんなところで終わっては、いけませんよ。まだ、はじまったばかりではありませんか」
「ほ、ほ、ほ。今日は、ここまで、また明日」
「また明日、おばあさんが来てくれるというのですか」
「いいや」
「じゃあ」
「まあ、落ち着きなされ。お話は、逃げないよ」
三人目のおばあさんは、ふたり目のおばあさんが言ったことを繰り返すように、
「わしのすぐあとから、わしの妹が、同じ道をたどって、旅をしておりますのじゃ。
わしの妹は、わしにそっくりでの。わしと同じように、お話を売っておりますのじゃ。
明日、今日と同じ時間にここを通りかかり、きっと、同じように、休ませてくれとおねがいするでしょう。
そうしたら、妹は、同じように、お話をお聞かせして、休ませていただいたお礼をいたします。
つづきを聞きなされ。
妹は、わしの話したその先を、すらすらと語ってみせるでしょう」
と、母親に言いました。
母親は、
「きっとですね。きっと、お話のつづきが聞けるのですね」
と念を押して、三人目のおばあさんを送りました。
鬼は、ほら穴にもどってきた母親に、腰をあげながら、
「早く、明日にならないか」
と、言いました。
「そうですね。早く寝ることですね。それでは、早くめしをこしらえましょう」
「そうか」
母親は、なぜだか、うれしくなっていました。
「扇丸は、十五になっておりました。
じきに元服です。
殿さまゆずりのふとい眉、その下のするどい鷹のような目、鼻すじはとおって、かたくむすんだ口唇は、強い意志をしめしていました。
世のなかは、みだれておりました。
あるじを殺して、お城をのっとったもののうわさを聞きました。
無一文の役者が、一国をつくったといいます。
はなたれた火で、一夜にして灰燼に帰した街があります。
扇丸は、早く、いくさに出たいと思いました。
ほこりのにおい。
けむりのにおい。
汗のにおい。
けもののにおい。
血のにおい。
お城にとどく、すべてのにおいが、扇丸をかきたてました。
「鳥」
「なんだ」
「力がほしい」
「どうして」
「じきに、ここも、誰かがせめてくる。そのときは、もうおそい。こちらから、せめていかねば」
「どこに」
「どこでもいい。すべてだ」
「力か」
「力だ」
「人の力には、かぎりがある。どんなに頭をふりしぼって考えても、それがただしいかどうかは分からない。明日の空が、晴れるかどうかも、分からない。どんなに腕に自信があるものでも、あの山をくつがえすことはできない。一日に千里を走ることはできない」
「そうだな。人は、なにもできないものだな」
「人のかぎりを知ることだ」
「すると、どうなる」
「少しだけ、かしこくなれる」
「そうなのか」
「が、人の力には、かぎりがない、とも言えるのだ」
「なんだと」
「どんなに頭をふりしぼって考えても、それがただしいかどうかは分からない。が、なにを考えるのも自由なのだ。どんなに腕に自信があるものでも、あの山をくつがえすことはできない。が、できないことを、やろうとするのは自由なのだ」
「そうなのか」
「それでは、おしえてやろう。
人にかぎりがあるということ。
人にかぎりがないということ。
どちらがいい」
「どちらかひとつか」
「そうだ」
鳥かごを目のあたりまであげて、扇丸は、言いました。
「人にかぎりがないこと、を知りたい」
「いいだろう」
かちり、ことり、かたり、と、なにかが音をたてました。なにかが、さっきまでとはちがう、と感じました。
かちり、と、碁石をそこに置いたようで、ことり、と、箸がころがったようで、かたり、と、歯車がかみあったよう。
人にかぎりがある。そんなことは、知りたくないと思いました。はじめから、知っているとも思いました。
扇丸は、人のかたちではなくなっていました。
赤黒く、かたい、つめたい肌に、針のような毛が生えていました。
着物は、ぼろぼろになって、肩、肘、腰に、わずかにひっかかっているだけでした。
いつのまにか、あたりは、暗くなっていました。そこは、山のなかのようでした。
ほう、ほう、ほろろろ、ほう、ほう、ほろろろ、ほう
ふくろうが、鳴いていました。
じりじり、じりじり、じじじじ、じじじじ
蝉も、鳴いていました。やはり、夏でした。
扇丸は、ぜいぜい、息を切らして、滝のような汗を流している自分を見いだしました。なにも覚えていません。が、きっと、逃げてきたのだろう、と、思いました。
け、け、け、け、けえ、け、け、け、け、けえ
聞きなれない、あざ笑うような、けものの声でした。きっと、あの鳥が鳴くのだろうと扇丸は思いました。
扇丸は、山のなかをさまよいました。
明け方、扇丸は、林をぬけて、ちいさな川にたどりついていました。のどがかわいていました。扇丸は、川の水をすくおうと、腰をまげました。
しずかに流れる川でした。朝日に金をくだいたようにかがやいて、さらさら、音をたてていました。
扇丸は、川のなかに、見たことのない顔と目を合わせました。まがまがしい、鬼の顔でした。
おおう、おおう、おお、おお、おおう
鬼の扇丸は、泣きました。
扇丸は、人であることをやめて、人にかぎりがないということを知りました」
四人目のおばあさんは、そこで、お話を切りました。