“意識と無意識”
どっちが自分なんだろう?
意識したことと、
無意識にしたこと
どちらが自分の本質だろう。
意識というものは、考えるということに似ていて、
無意識というものは、感じるということに似ている気がする。
人が持つ好奇心は人それぞれで、
これは、意識して芽生えるものではなく、
無意識のうちに、既に気になっていたり、関心があったり、没頭したりするもの。
この、自分にしかない“心のワクワク”は、無意識のうちに、
“なにか”に吸い込まれていくようなもの。
だから、自分を手放し無我になって初めて、そこに新たな自分が形成されていく。
そして学校では、そもそも“自分とは?”なんて、
考えて見つかるものではないのに、
教室で意識的に“自分らしさ”を考えさせる上に、
現実には“みんな一緒に”を重視する。
これでは本来無意識のうちに眠っている“自分”は見つからないし、
子どもたち自身の大きな自己矛盾に繋がる。
大自然を目の前にワクワクする男の子のそのワクワクは、考えて生まれたものではない。
絵を描くのに没頭している女の子は無意識で、
絵が完成して意識的になるのかもしれない。
自分を手放すということが、
自分の学びや成長につながり、
そして更に、
自分を手放せるということは、
自分ではない誰かや何かへ能動的な共感にも繋がる。
意識と無意識
自我と無我。
創造しながら学ぶことの本質は、
自分を手放して、
そのもの(対象)に寄り添って創るという過程によって
自分自身が変容することが、
学びであり変化であり成長である。
学校教育は、この学びや、気付きをどう生み出せるか。
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2019.6.10.
“考える”と“感じる”
意識と無意識。
自分という存在の、潜在的な力を知るためには、
無意識にワクワクしてしまう、
そんな時間を大切にしたら良いと思っている。
みんな違う、そのワクワクの時間は、
とてもかけがえないものだと思う。(^^*)