北海道では3/31にエゾシカの猟期が終わります。
同時に今年から始めた私の1年目の猟期も終わろうとしています。
まず、今年の狩猟結果のサマリですが1月~2月の終盤までは毎週末、必ず山に入っていましたが、1頭も捕ることができず、鹿に逃げられる毎日でした。
2月の終わりに初めて単独で鹿を捕ることができました。
それからは3週間連続、鹿を捕ることができています。
結果、今年は4頭の鹿を捕ることができました。
この1年目の狩猟結果を踏まえた気づきを、3点 記録(1年目に自分が考えたこと)の意味も含め、記載しておきます。
1.識者から学ぶ価値
2.経験の本質
3.命を奪う事
私は狩猟のエキスパートがたくさん所属しているサークル(猟友会ではない)に入らせていただきました。
このサークルに出会えたのは、本当に偶然が重なった結果でした。
この世界では、狩猟免許や猟銃を取得しても、なかなか実際に狩猟に行けず、狩猟をやめていってしまうような人が多いです。
このサークルはそのような人を減らしたい、新人のハンターの伴走をしてあげようという、とても素晴らしいサークルで、参加している方たちも本当に素晴らしい人達ばかりでした。
先輩ハンターさん達は、新人を誘って一緒に行ってくれたり、場所を教えてくれたり、狩猟の道具や委託のやり方(※)などを本当に丁寧に教えてくれました。
絶対、何も情報の無い状態では経験できない時間や情報をたくさん提供していただきました。
※) 「依託」というのは、銃を固定するために木だったり、ポールだったりを利用することを指します。
想像以上に銃はふらつきますし、撃った時の衝撃が大きいので、依託しないで命中させるのは結構難しいです。
私は釣りもするのですが、釣りも同じだった記憶があります。
我流で釣りを数年していたのですが、釣り好きの方と知り合いになってからの1年は、今までの数年の知識や経験をあっという間に超える密度でした。
つまり、何かを始める場合は識者についていって知識を上げていくのは最も効率的な進め方だということです、これはどのような分野においても相当確度の高い法則では無いかと思います。
話しは全く変わり、私はIT企業で働いています。
ソフトウェアの開発でペアプログラミングやモブプログラミングといった伴走型の開発があります。
生産性などの話しで、あまり価値を見出さないケースもあったりしますが、同じ理由で、初心者をBダッシュで成長させるという意味では、最も良い手法であると判断します。
(心理的安全性の確保は必要です。)
先輩ハンターさん(年齢は年下です。。。)に同行させていただいたり、色々な知識をいただいてからは、習得したスキルを頼りに単独の狩猟を繰り返しました。
2か月間は1頭も捕れませんでしたが、捕れるようになってからはポンポンと捕れるようになりました。
忍び猟では、
「鹿のいそうな場所」に「鹿に気付かれないように近づく」必要があります。
この気付かれないというのがとても難しく、鹿は人間に気付くと警告音(ピーピーと鳴いて周りの鹿に危ないことを伝える)を発します。
そうなると、周りの鹿達もみんな急いで逃げてしまいます。
ですので、狩猟は人間と鹿のどちらが先に相手に気付くかというゲームになります。
雪を踏む音、木の枝に触れる音、服の摩擦音などどんな小さな音でも簡単に気付かれるため、着る服も着付け、少し歩いては耳を澄まし、景色に常に目を向けます。
最初は本当に毎回、ピーピー鳴かれて逃げられる繰り返しでしたが、繰り返すことで大分上達してきた気がします。
ただ、この上達した理由はなかなか言語化できないのです。
「この辺にいそうだな」
「この山の尾根を越えたら、休んでいるじゃないか」
「こっち向きに足跡があるから、あの辺でみんなと合流しているかも」
みたいなことを想像するのですが、この想像する情報が
「山のにおい」だったり「風の流れ」だったり「過去に見た似たような景色」だったりする気がします。
この部分だけはどうしても「本を読んだり」「先輩に聞いたり」では身に付けることができず、「経験」によってのみ培われる部分ではないかと思います。
「YouTubeさえ見れば、経験によって得た情報なんて一瞬で身につく」
というような意見が最近多いと思います。
「寿司屋の修行なんて意味が無い」というような文脈で使われていました。
それはそれで納得ではありますが、
ただ、それとは別次元で経験しないと獲得できない情報というのも、やっぱりあるのだと思います。
これをバカにすることはできないな、
というのが、気付きの2つ目になります。
気付きの3つ目は、とっても重い内容です。
これは、狩猟をする人にとっては必ず正面から向き合う必要がある課題だと思います。
それは「罪悪感」です。
釣りをしていた時にはほとんど感じたことは無かったのですが、
鹿を捕った後に大きな罪悪感を感じます。
これは、止めを刺す行為や停止する心臓を感じる感覚、人間とほとんど変わらない目や流れる血だったりが、自分とそれほど遠くない生き物であると感じることが原因だと思います。
間違いなく大きな痛みを感じていると思いますし、止めを刺すために、生きている鹿の喉に突き刺すナイフの手に伝わる感覚、死んでからもしばらくは感じる体温(解体中はずっと暖かいです)、すべてが罪悪感に拍車をかけます。
この罪悪感の問題については、いくつかの模範解答があると思います。
前提として、生きるため(食べるため)に殺生をしているというロジック。
命をいただいて食べさせていただいている。ありがとう。
というストーリー。
更にストーリーを進めて、普通の人も豚や牛を食べている。
この時に、命をいただいているという認識が浅い。
自分達は、命を奪う瞬間も経験し、より生きるために食べるということの意味を理解している、という流れで正当化するパターン。
自分ももちろんおいしく食べることは大きな目的です。
先輩ハンターさんのロープワーク、ナイフワーク、解体の姿(これは、もう美しい芸術品だと思います)を勉強しています。
ただ、自分にはこの思考ロジックは完全に自分の罪悪感への回答としては腹落ちできませんでした。。。
エゾシカは農地を荒らす害獣となってきているので、人間の生活を守るために、自分はやっているという理論。
これはとても重要なものですが、自分は農地の被害からかなり遠いところにおり、無理やりこのロジックを持ってくるのは厳しい。
他にも色々な思考をしてみたりもしたのですが、1年目の現時点の思考の結論としては、
「私は鹿を捕ること自体を楽しんでいる」
です。
この結論を変えられるようなロジックが見つかりません。。。
ここからは、完全に想像ですが、元々狩猟民族時代が長かった人類(特にオス)は、狩猟に伴うリスク(昔は生死が掛かっている)を超えて狩猟をできるように、「狩猟は楽しい」という感覚を取得したのではないかと推察します。
一方、集団生活に必要な倫理観も成熟させる必要があり、その中には「似ている動物を殺めることは酷い事」という相反する意識も植え付けられた。
結果的に、このような感情(相互にバランスをとっている)が沸き上がる結果になったものと考えます。
どうしても、自分はアフリカ大陸などで、ライオンや象を完全にハンティングゲームとして楽しんでいる人間とは一線を画したい思いが強いのですが、
明確な違いを説明できるロジックが無い状況です。
ただ、鹿に対してのリスペクトは強くなってきており、「命の取り合い」をするというステージに自分自身を置きたいという思いも出てきました。
つまり、自分にも何らかの命の危険要素を付与することで、真剣勝負であり一方的な暴力にはしたくないという感情です。
なんの危機感も無く近くで立っている鹿を撃つのをやめた時もありました。
「ゲームならフェアにやりたい」という、もう狩猟からはかけ離れた感情も芽生えてきており、益々、自身の思考が安定しなくなってきています。
来季の狩猟までに、このあたりの思考を整理しておこうと思います。