拙著『蝶を放つ』(小説)全文を有料記事としてアップしようとすると、パソコンが固まります。まだ長い作品に対しては脆弱性があるようです。
そこで分割して販売します。各回に無料部分と有料部分を設けます。20回の予定で連載し、全部読んでも書籍より安いようにしたいと思います。
なお、製本版はALIS決済で直販します。直販希望の方は下記メルアドへご連絡ください。その時点でのALIS=円レートを基準に円換算で約1200円+送料(180円)でお送りします。
製本はハードカバー上製。短編『仙田くん』が巻末にあり、本文143ページです。
連絡先 swamipremabhisheka◎yahoo.co.jp
(◎を@に変えて送信お願いいたします。迷惑メールファイルに入らないようにタイトルを『蝶を放つ』直販希望と書いてください。)
食道癌の最期は、頚動脈が破れて喉からピューっと天井まで血を噴きあげるという。
「あっという間に脳があかんようになる。ほとんど即死やで」
医者をしている友人からそう聞かされた。抗癌剤の治療が思ったような効果をあげず、父は自宅に戻って静養していた。打つべき手はもう何もなかった。そこで最期の日々をせめて自宅で過ごすことにしたのであった。
その父を見舞ったとき、僕は友人のその言葉を本人に告げた。
「楽に死ねるらしいで……。思い切り射精したあと、すーっと意識が遠のくように」
それを言ってほっとさせてやりたかったのだ。実際、天井まで血を噴き上げるとするなら、その姿は全身を使った射精に似ていなくもないではないか。
セックスでオーガズムを迎えるときに「逝く」とか「死ぬ」と叫ぶ女性もいるように、死はどこか性の絶頂に似ているのかもしれない。
父は表情を変えずに聞いていた。僕はその顔を見て残酷な慈悲で胸の芯が痛むのを感じていた。だが、父がいつまでも何も言わないので、僕はますます余計なことを口走った。
「その医者が言うてたんやけど、食道癌になりやすいのは、煙草を吸いながら濃い酒を飲む習慣のある人らしいなあ。そうするとアルコールに溶けたニコチンを食道に塗りたくることになるらしいわ……」
父は遠い目になった。少し上目遣いの虚ろな目である。仕事帰りに、行きつけのスナックで、色の濃いブランデーを飲みながら、ラークばかり吸っていた自分の姿を回想しているのだろうか。
僕もまた死の床で生涯を振り返ったとき、何かを強く後悔するのだろうか。
だが、父はそのスナックで友子さんと出会った。そして母にも僕ら子どもにもけっして言えない甘美な時を過ごしたはずなのである。女にしがみつき思いきり射精したあと、すーっと意識は遠のいたであろうか? 抗癌剤の辛い治療の夜、父はそのことをどんな気持ちで思い出しながら、ベッドの暗闇で寝返りを打ち続けたのだろう。
食道を広げるステントの入った喉をごろごろと鳴らして、父は僕に何か言おうとした。だが、途中で胸がえづいて「おえ、おえええっ」と言ってティッシュを手にとり、唾をすこし吐いた。そしてまるめたティッシュを傍らの塵籠に放り込むと、もう一度僕を見た。
が、結局、何も言わなかった。
「じゃあ、また来るから」僕が軽く手を振ると、按摩用の椅子にもたれかかってテレビを見ていた父は「おおっ」としわがれた低い声で言って、片手をあげて見せた。
「またな」と唇だけが動いた。
それが生きている父を見た最期だった。