小説と漫画はどちらも文学としてくくることができますが、それらを同じような媒体として語ることは一概にできないように思えます。小説と漫画が同列に語れないという理由について少し考察したいと思います。
こと小説においては、括弧の中に何が当てはまるのかというのは漫画以上にアロケートすることが難しいと思われます。というのも、漫画では吹き出しというのもで説明が展開され、それはほとんどの場合キャラが発しています。一方で小説はキャラクターがいるというわけでは全体に当てはめることは難しく、キャラやキャラではない表現の一環として吹き出し的な括弧が使われます。
小説においては括弧の中身に書いてある文言が「だれによるものか」はいちいち確認することができず、読者の想像にゆだねられます。一方で、漫画ではそのような演出をする際には、あえてコマのなかに誰も書かずに吹き出しだけ出せば「誰が言ったかわからない」文言となり、考察の対象になりえます。
このように小説と漫画によって、誰が何を発したのかという視点を持つことそのものが疑われることになり、それら両者がことを異にするわけでもあります。
キャラ性というのは日本においてはとくにもたらされるものであり、海外にはキャラという概念がないのもしばしばいわれることです。それは大体の場合一人称にも表れているようにキャラというのを表現するために多くの引き出しを持っているのも一つあるでしょう。
漫画はキャラを作り上げるのに多くのパラメーターが用意できるのです。というのも、文体ではおもに「一人称」「語尾」「周りからの性格」「容姿」などでキャラを作り上げていくでしょうが、容姿や見た目は文体では伝わらないことが多く、複雑怪奇な外見をした表現物はなかなか理解されない傾向にあります。だからか、文章上で表現した「名状しがたいなにか」は漫画のほうが有利に表現できます。
例としては、日本のアニメキャラに言えるでしょう。大体の場合「ほとんどのアニメで出てくるキャラクターの外見は著しく似通って」います。しかし、その似通っていることにあまり不快になる人は少ないでしょう。なぜなら、そもそもキャラを重要視している文化の中にあるため、些細な差でもあればそれは一つの独立した惑星と認知するからです。
文章では、それに関してあまり差別化できないのも一つあります。例えば一人称が「おいら」で語尾が「じゃ」の人物と、一人称が「俺」で語尾が「じゃ」の人物がいたとして、それらの差は語尾でしかありません。すると、他に容姿や性格で差別化しようとしますが、小説では文体のため容姿をはっきりと映すことができず、どうしてもイラストだよりになります。しかし、イラストと文章が別々に駆動するため、イラスト入り小説は漫画よりもキャラ同定を行うまでのプロセスが長くなります。
キャラ同定がコマ内に収まっており、毎回確認できる漫画はよりキャラを色濃くできます。