安楽死は日本においても検討されているものであり、それを望む人も少なくありません。例えばすでに動けなくなっていたり、痛みで苦しんでいるにもかかわらず治る見込みのない病に倒れている場合などは、看取る側も看取られる側も「死」を望んでいることはあります。
死というのは一見避けがちで遠いことのように思えるかもしれませんが、最近の日本などではその考えは薄れてきているのではないでしょうか。
死は突然やってくるとは言いますが、誰でも死ぬことを頭に入れておけば、突然なんていうことはありません。スペインでは安楽死が合法化されて1年以上が経ちましたが、1年間の安楽死者数は160人と少ないとは言えません。
つまり、安楽死には一定のニーズが存在しているのです。そして、それは安楽死を望んでいる人にしかわからないのです。こんなことをいうと、本当に他人行儀だと思われるかもしれませんが、私がその身にあれば安楽死は「真実の救済」と神のようにたたえるでしょう。
このまえ、死に至る病としていろいろな病気を紹介してきましたが、あれらのトップ10に入るような病気はかかってしまうともう手遅れなことが多く、あとは死ぬだけな状態になります。
「死ぬ権利」は生きる権利とも同義であるとする意見もあるように、その権利について怪しがったり遠ざけたりするのはどう考えも「怠惰」であり罪でしょう。まさに犯罪に同義です。
よく日本では、死刑制度の廃止が挙げられますが、本当の意味での死刑というのは「死なずの刑」でしょう。なぜなら、人間は少なくとも何かしらを辞めたいと思う時期があり、それが自分自身の命の場合もあるからです。自殺が生じる理由は人間が「生きる」というゲームをやっているからにすぎません。
浄土真宗などでは、死んだとしても49日間はこの世の中に死者がさまよい続けるという言い伝えがあり、成仏できるかできないかの瀬戸際が存在します。
最終的に死んだ人間が何を見ているのかは生きてる側からはわかりませんが、死というものは絶対的な裁定手法ではないということも又しかりでしょう。
端的に重い犯罪を行ったものに「死ね」というのは簡単ですが、本当にその人間が死ぬべきかどうかは天上にかけて情状酌量の余地があります。誰も宇宙の中心がどこなのか、地球の中心がどこなのかわからないように、人間の善悪の基準も同様だと思うのです。