東南アジア諸国には東アジアにあった中央集権的な機関はかつて出てきたことがあまりなかった。これは一縷に曼荼羅論といわれているもので、実力駆動型社会のことを指している。現在のブロックチェーンはいささか東南アジアの曼荼羅モデルと功を奏しているように思える。
中央集権取引所のあいつぐ失墜とともに、明らかに表舞台へと突き進んでいるのが分散型の金融である。ブロックチェーンはまさにこの分散を実現するようなツールであるとともに核といわれるほどに恐れられてもいる。
今のところ、完全に分散化されたブロックチェーンはビットコインくらいしか知らない人は多いかもしれない。イーサリアムは分散型とは言いつつも、その内情は中央集権的だと指摘されることがしばしばあり、疑念の余地がある。というのも、何回か見た記事で書いてあったように、イーサリアムの目的が何なのかよくわからないからだ。
しかし、中央集権のすべてをイーサリアムを含めて批判するのはどこか間違っているように思える。例えば、病気になったときに処方箋をもらうのと生活習慣を直すことは別なのではなく、並走させるべきなように、中央集権と自律分散は互いに協働することが望ましいと言える。しかし、大体の場合どちらが正しいかという議論になりがちである。しかし、結果的に言えることはどちらも必要だということだ。
これまで、自分の資産を中央集権取引所に預けていた人はFTXの破産を見ておののいたかもしれないが、だからと言って分散型ウォレットに資産をつぎ込んでいてパスフレーズも自分で保管している人々が安心したかといえばそういうわけでもない。暗号資産には中央集権的な一面と自律分散的な面がどちらも併存しているからだ。
究極的には自律分散がいいということは誰かは思っているかもしれないが、究極的に中央集権で成功した歴史がないのと同じようにそれはないと断言できる。すなわち、ある程度の塩梅で自律分散的要素が金融業に必要だというだけの話であり、それ以上でもそれ以下でもない。