生まれたときに貧乏なのはあなたのせいではないが、死ぬときに貧乏なのはあなたのミスだ
ビルゲイツが述べた上記の言葉には、人生における重要な気づきが含まれているようにも思えます。少なくとも成功するには、借金をしなかったり、不平不満を言わなかったり、損してでも得を取ったり、特異なことをライフワークにしたり、健康を気遣ったり、やりたいことを行動に移したり、自己投資を惜しまなかったり、継続的に取り組んだり、他人を思いやったりできる必要があります。
しかし、上記のような心がけをどのくらい守れているかといえば、そうでもなく、せいぜい健康に気を付けているくらいしかありません。毎回忘れてしまう重要な事実はたびたび思い出さなければならないほど、そうではない習慣が当たり前と化していることに辟易してもいます。
とある人は、今年の抱負は何もしない日を作ることだと述べていましたが、ここでいう何もしない日、というのはスマホすらタイムロックコンテナに入れて触らないような人のことを指しており、10分もSNSを見ずにはいられない身としては恐ろしいほどハードルの高い目標だとも感じ取れます。しかし、現実的に考えてYoutubeやGoogle、それらに関するすべてのインターネット情報媒体にアクセスしないことは、1時間とも考えられません。
とはいっても、日本に住んでいればさらに考えられないこともあります。それは大気汚染という現象です。少し前まではPM2.5が、とか、もしくは福岡など西日本に住んでいて春先になれば、そのようなことは聞くかもしれませんが、東日本や北日本、とんでヨーロッパ西部や北欧に住んでいると、大気が汚染することの深刻さについては全くもって無理解となります。それは政治のトラブルにも相通じるところがあります。
居眠りをしながら国会審議に出ていても問題とされない国がある、そう聞いて青ざめる国民がこの地球上にいないとは言い切れません。まさに、インドのデリーやパキスタンのラホールの深刻な大気汚染の現状をみて青ざめる北欧人のように、そして、中国が毎年とんでもない量のCO2を排出しているとしてドイツ警察に身柄を拘束されてしまった環境活動家のようにです。
思うに、当たり前とは常に見えないもののような気がしてきます。それを当たり前だと認識していることは、何らかの当たり前ではない要素が外部にあることを知っているという状態でもあり、最悪そこから脱出できることを暗示しています。例えば、日本がヤバくなったら成田空港とか横浜港に向かって、国外脱出する先があることを知っているようにです。
しかし、問題なのは当たり前という言葉を知らないでいる状態の時です。これは何が当然なる存在でありそうではないのかを知りませんから、突然当然なるものに出会ったとき、衝撃を受けるどころでは済まされない可能性があります。一縷に、「挑戦」というどこかかっこいいような言葉の畏怖がどこから生じているのかといえば、無理解や無知との遭遇ではないかと思っています。
暗号資産を取引したは良いものの、いつの間にか確定申告の対象になっていた、しかし確定申告の対象になるなんて思ってもいずに、確の字すら知らなかったという具合にです。
結論から言うと、やはり無知の渦に飛び込むことはリスクしかないように見えますが、それをどこかで求めている気がします。結局のところ、やらなかった後悔は、確かにあとで腑に落ちますが、やった後悔は記憶に残したいとは思いません。