かつて、大量の情報系産業記事を書いていたものの、最近はそれから脱却しつつある。その理由と今後の展開などを予測していく。
それまでは、端的な情報の吐露を連続的に行っていただけだった。これに関しては言うまでもなく失敗だったといえる。本当ならば、情報の端的な吐露だけで終わっていいものではない。
案件をこなすようになってから考え始めたことの一つが、今までのブログ記事はあまり「凝っていない」ことである。これは前にも述べたように「1記事へのこだわり」の差からくるものだと考えている。
そして、大体の案件をこなしていくにつれ、情報産業系の記事は「構文」が重要なことに気づかされた。例えばPREP法やSEO対策など、内容よりも型が重要であるということだ。
私の書いてきたブログには型はなかった。しかし、確かにどのブログにも型があり、それを毎記事忠実に守っているものが伸びていた。
典型として挙げられるのはリストやチェックマーク、ツイッターの埋め込みなどである。ツイッターの埋め込みは最近非常に盛り上がっているが、このALISでも行える。
しかし、個人的にその術を使ってきたかといえば使ってきていない。端的に文章を打つということだけをひたすら続けてきた。それが間違いだとは言わないが、それでいまだにうだつが上がらないのも事実であり、うだつを上げるためには何かしらのアクションを行わなければならない。
それはある意味で「投資」と似ているかもしれない。
いきなりお金の話に転換するが、投資というのはいわばお金を運用しているということであり、運用しているということは何らかの形で使っているということだ。暗号資産に投資するでも、不動産を買うでも何かしらに投資していることになり、お金を使っているということだ。
こじつけ臭いかもしれないが、ブログとお金の共通点はおそらく型にあると考えている。それはまるで鬼滅の刃の型のように一定の法則のもと、安定的に利用できる資源である。
例として挙げられるのはリード文の書き方、そして締めの方法だろう。ブログには基本的にリード文なるものが存在しており、それをみてほとんどの読者は全体に対する印象を受ける。
リード文はさりげなくとも非常に重要な文章といえる。
そして、ライティング的な要素を欠けば次に来るのはプログラミングの知識だろう。ブログとはいえHTMLやPHP、ほかにも「型式」があるものはいくらでもある。
最終的にブログが何年読まれるのかを考えたり、ほかの媒体でも再利用できるのかや、次になる部分を重要視して考えていくのがいいと思われる。
小説とブログの違いは、基本的にセールスライティングがあるかどうかなんじゃないかと思ったりする。もちろん、そうでないブログがブログだという意見もわかるが、小説はほとんどの場合、解説書ではなく表現の場である。それは基本的には誰かに見説というところで共通のものがあるが、小説にはそれ自体の価値を考える必要がある。
ブログと小説は、まったく方向性が異なるように思えるが、連載型小説と日記の違いはそこまでない。例として、源氏物語や枕草子、それらと鴨長明の作品はどちらも文学として語られる。
ブログも小説も、どちらも文学と考えればその違いはあまりないと考えていいだろう。
DIE WITH ZEROという本はベストセラーになったことで知られているが、超高齢化社会の今、最終的に自分がどこに向か言っているのかを考えることはある程度重要なのではないかと思うようになってきた。
死というのを頭の隅に入れつつ行動することで、次の方針が立てやすくなる。そしてそれは自身の資産運用にも役立つような気がするのだ。もちろん、それは病気になったり事故になることで大幅な予定変更があるかもしれないが、そうならないようにする一つのアンカーができる。
貯金についても一つ考えがあったりする。それは、最終的に使ってしまうお金は貯金しても意味がないということだ。貯金とは、それが使う予定のない資産だから貯金というのであり、ためることの本筋だと考えている。
お金はためることに越したことはない。そして、それを使うならば、究極にまで考え、本当に良い使い方なのかを問い続けなければならない。