人生100年時代といわれるようになってから随分と時間がたったようにも思える。しかし、今の時代では若者のデジタルスキルの高さと年長者(60歳以上)のそれは異次元といってもいいくらい乖離してしまっている。
そのギャップはアメリカの雇用統計にも表れており、すべての会社のCEOの平均年齢が40代初旬なのに対して、GoogleやAppleなど大手テクノロジー企業に関していえば30歳前後となっている。
今や、デジタルカンパニーの見るところはほとんどが花形職業になった。それらはどんどんと若き人材を迎え入れるようになる一方で、年長者の主要ポジションへの危機のようなものがどこかにはあるのではないかと感じざるを得ない。
これまで、子供は子供として大人を羨ましがってきたように、大人が大人として年長者を羨ましがることはないのだろうか。そんなことは、例えば50歳になったとたんに、いまからの100歳に至るまでの半世紀を、どのような人物になるために使っていきますかといわれるようなものだ。それに対してはほとんどの場合、子供が大人を見るような目線がそこにあるわけではないように思える。
しかし、それまで年寄りといわれてきただけの年長者としてやり繰りを経ていくのではなく、年功者として賢く立ち回ることはできるのではないかという指摘が存在する。人生が長く続くとわかっている時代において、年老いた時点での新しいアイデンティティが必要であり、それこそが「モダン・エルダー」として振る舞うことである。
職場や社会において、時間がたつごとに価値が増していく賢い年功者になるためには、どのような取り組みが必須になってくるのか。それは強力な腕力や機敏性、速度を澄ますことではなく、洞察力であり判断力を磨くことで達成することができると言われている。まるで、長い時間を経て熟したビンテージワインのように、それまでの経験から新しき知見を俯瞰する能力を高め続けることでそれは成せる。
デジタル時代において、知能指数よりも注目される能力がある。それはタブレットを使いこなし、新しいデジタルワールドに融和することのできる「デジタル知能指数、DQ」である。このDQの高さを競うあうとなったとき、これまで通りに生きてきた年長者は、若者のそれの高さに常に圧倒され続けることになる。生まれてこのかたテクノロジーと切っても切り離せない環境で育ってきた人間と、その分野で勝負するのはやる前から決着がついている。
とはいっても、世界有数のテクノロジー企業が、そのような高DQの持ち主だけで回っているかといえばそうではない。そこには高いEQの持ち主がいることがある。EQとは、心の知能指数のことで、謙虚さや思慮深さなどを図る指数と言い換えてもいい。このEQが高い人物になることは、別段テクノロジーに精通している必要はなく、モダン・エルダーが得意とできる分野の一つだと言われている。
モダン・エルダーのあるところ、経験の蓄積は線形的ではなくてもいいことが多い。これまでは、新しい知見や経験といったものは、年長者から若年層へと受け継がれるものであるという認識が強くあった。しかし、テクノロジーの新しき知見は、高いDQの持ち主に宿るものであり、高いEQを持っていても得られることはない。だからこそ、若年層のアイデアに対して初心者的な態度で対面することが重要になるという。
とはいっても、これまで上がってきた階段を無視して、新しく何かを始めることはエネルギーが必要で容易ではないことが想像できる。しかし、年老いていろいろな経験を積むことはそういう境遇に追い込まれてしまうということを体現しているわけではないという。
若き人物にしてみれば、何かに秀でることは時間の許す限りでも年長者の持っているチャンネル数よりは少なくなる。もしも若者のキャリアをツイッターのアカウントに例えれば、年長者はインスタグラムも、スナップチェットもアカウントを開いていたりする。SNSを利用したことがあれば、それらのアプリケーションの違いは全くことを異にするものであり、違う惑星系に来たような別の視点を用意しなければならない。
そういった意味において、年長者が持つ知見とは、べつの領域のものを多数持っているということになる。それは、非常に強みになるのではないか、ということである。