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INxxのための自己啓発 (2) 受け取って配置する、というサイクルを死守せよ

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  • cleemy desu wayo
  • 2020/08/09 10:48
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(「INxxのための自己啓発」シリーズ)

 

受け取って配置すること。

そしてその配置が、次に受け取る時のための受け皿をつくること。

その流れは、INxxであるあなたが生きる上であらゆる場面に立ち表れるパターンであり、またあなたの根源的な欲求でもある。

 

受け取る、とはいっても、もちろん送り主は人間ではない。

少なくとも、同時代の人間ではない。

では、この送り主をどういう存在とみなすのか、あるいは何と呼ぶのかは、文化的背景や科学観などによって異なるだろう。

ここでは単に、送り主と記述する。

 

そういう存在を設定することにどうしても違和感がある場合、「送り主」を「自分自身」とか「もう1人の自分」などに置き換えてもらってもかまわない。

あるいは、具体的な存在としての送り主を設定してしまうと、ここで考えている受け取るという行為を捉えそこねるのかもしれない。

 

配置というのは実際に物理的な配置である場合もあるし、頭の中だけで完結する場合もあるし、自分だけが聞こえる声で何かをつぶやくといった行為である場合もあるし、もっと複雑で微妙な行為によってなされる場合もある。

配置という行為はある種のサービスの提供といえるが、それは他の人間に対してではない。

そのサービスを適切に享受できるのは、自分自身か送り主のどちらかである。

あるいは、その両方である場合もあるかもしれない。

 

他人と共有可能なものというのは、配置という行為を通して時間差で獲得できた何か、あるいはほんの少しだけこぼれ落ちた何かである。

この配置という行為と他人と共有するという行為を、完全に一致させようとするべきではない。

たとえその配置されたものが他人から確認可能であっても、他人は正式な招待客ではないのである。

他人と共有すべきものは、ここで考える配置とは意識的に分けたほうがよい。

 

配置が適切になされることによって、次の受け取りや他人との共有が可能になる。

 

INxxのあなたにとっては、このサイクルがルーチンワークになってしまうのも危険である。

ルーチンワークになってしまうと、本当は何も受け取っていないにも関わらず受け取ったことにして無理やりルーチンを回していくような形にならざるをえない。

それは危険でもあるし、冒涜的でもある。

 

INxxの言動が他人によって的はずれな解釈をされることは非常に多いが、ルーチンについてもそうだろう。

他人から見てINxxが何かを反復しているようにみえる時、それは単に決められた手順を反復しているのではなく、何らかの仮説を検証しているという可能性を真っ先に考えたほうがいい。

 

本人にとっては仮説について考えることがメインなのだが、それが他人からは見えないために、同じことを繰り返しているように見えるのである。

同じINxxからであっても、やはり仮説の存在は見えないので誤解する場合がある。

そして、仮説の存在を本人もはっきりとは自覚していない場合もある。

また、仮説の存在を自覚できたとしても、これこれこういう仮説です、と簡単に言葉で説明できるとは限らない。

 

古今東西、INxxの行動を表面的に真似ることによって成立した宗教的な儀式は多そうである。

というより、宗教的な儀式がどのように成立したかをイメージする上で、現代社会においても散見される、一見すると反復的に見えるINxxの行動を表面的に真似る者が現れ始めるという状況を観察することがヒントになりそうだ、といえる。

 

また、子供の頃に1人で無意味な配置の作業に没頭していた人は、将来INxxになる確率が高そうである。

大人たちは、「その行動にはどういう意味があるのか」と問うことも、やめさせようとすることも、積極的に推奨することも避けたほうがいいだろう。

 

あなたが受け取るタイミングについては、あなたにとっても意外な形で訪れる場合がほとんどである。

内容やそのあり方に意外性があるのが常だが、タイミングにも意外性がある。受け取るのが明日なのか10年後なのか、誰にも分からない。

 

だから、受け取って配置するというサイクルを現実的な業務におけるサイクルと一致させようとするのは、むしろINxxとしての力を弱めることになりやすい。

これは特にINxPにおいて顕著である。

 

INxJはもともと受け取って配置するというサイクルと現実的な業務におけるサイクルを分離するのが得意である場合が多い。

INxJは他人から見て、受け取って配置するというサイクルがまったく存在していないか、もしくは現実的な業務におけるサイクルと完全に一致させることに成功しているように見えてしまうことがある。

 

これは賃金を得て行う業務、つまり依頼された業務以外にも、個人の都合で運営するブログの更新などについても同様である。

INxJが週に1回欠かさずブログを更新するというペースを保っていたとしても、たいていは受け取って配置するというサイクルが週に1回訪れているわけではない。

INxPが無理をして週に1回更新というサイクルを持続しようとすると、多くの場合あまりよくない負荷がかかる。

 

また、ブログやSNSなどにおいて、どのタイミングで何に言及するかというのはINxxであるあなたにとって、極めて神聖なものである。

ここにしがらみであったり交換条件に基づく依頼などが入り込むことは、可能な限り避けたほうがよい。

たとえ「しがらみ専用アカウント」と「配置専用アカウント」のような使い分けをしたとしても、避けたほうがよい。

 

受け取って配置するというサイクルにおいて最も重要なのは、受け取るという行為は受動的なものでなければならないことだ。

 

ただしここで言う受動的というのは、あまり能動的ではない、くらいの意味だ。

あるいは、自らの意思で受け取ることが不可能な形で受け取る、といってもいい。

 

それは「つかみとる」という行為や「呼び寄せる」という行為とはかけ離れている。

ただし、他人には呼び寄せたように見えるかもしれない。

 

もしかしたら、それは行為ですらないのかもしれない。

 

ここで考えている「受け取る」を、適切に表す言葉は現代の日本語には存在しないかもしれない。

「受け取る」がどのような感覚なのかを言語によって説明しようとするのはそれなりに骨の折れるものになりそうだ。

 

動詞においては、能動態と受動態の対比が有名である。

能動態の動詞がある典型的な文章の例は「私があの熊を殺した」。

受動態の動詞がある典型的な文章の例は「あの熊は彼に食べられた」。

 

ギリシャ語やサンスクリット語を含めた昔のインド・ヨーロッパ語族には、能動態でも受動態でもない中動態が存在した。

この中動態は、いつの間にか失われた存在とされる。

 

『中動態の世界』(2017年刊)では、哲学の起源と中動態の抑圧が結びついていたと考えるエミール・バンヴェニストやジャック・デリダの指摘に着目し、さらに古代ギリシャの時代には意思という概念が存在しなかった点にも着目して議論を展開している。

 

また、『中動態の世界』では、単に能動態とも受動態ともうまく分類できないものが中動態だったのではなく、もともと受動態は存在せずに中動態から受動態が派生し、受動態が生まれる前は能動態と中動態の対立があったのだ、としている。

中動態は様々な定義がされてきたが、『中動態の世界』では、出来事が行為者(主語)の外で完結するのが能動態で、行為者(主語)が過程の内部にあり続けるのが中動態なのだとするバンヴェニストや細江逸記の定義を重視している。

 

そもそも意思が存在しなかったのだから、能動態と中動態の対立は「する」と「される」の対比にはなりえないし、中動態が「する」と「される」の中間だったわけではない。

「する」と「される」の対比自体が、もともと存在していなかったのだ。

 

そして、細江逸記が「自然の勢い」という表現をしたことにも着目し、中動態の根底には「自然の勢い」があるのではないか、という。

 

以下は『中動態の世界』のP.187。

中動態は、主語が「する」のか「される」のかを問う能動対受動のパースペクティヴではなく、主語が過程の内にあるのか外にあるのかを問う別のパースペクティヴにおいて理解されねばならないのだった。ならばその中動態が、過程を実現する力のイメージをその内に宿していることは別におかしなことではない。

細江の用法からは離れて、「自然の勢い」という用語を、いわゆる自発とは異なる意味をもつイディオムとして用いることにしよう。

そうすると中動態は、主語を座として「自然の勢い」が実現される様を指示する表現と言うことができる。いわゆる自発の表現は、その「勢い」のうち、「自然」の部分が強く感じられる表現だと言えよう。

中動態には「宿る」という感覚がベースにあるということになる。

これが正しいとして、さらに受動態も能動態も共に中動態から派生したのだとすると、かつてはすべての動詞に「宿る」という感覚があった可能性が出てくる。

 

何かが宿っていたからだ、と考えるのは、理不尽な出来事においては心理的な負荷を軽減させる機能を持っていた可能性はある。

少なくとも、直接の被害者ではない者にとっては納得しやすい。

理由がない、というのは心理的な負荷が大きい。

 

現代においては、「宿る」という感覚だけが不自然に復活するのは危険かもしれない。

理不尽な出来事について、「がんばらなかったからだ」「前世で悪業を積んだからだ」というような発想も復活させてしまいかねないからだ。

公正世界仮説の感覚を強化させてしまいかねないわけだ。

 

特定の個人あるいは限定されたグループに責任を負わせるのが当然という前提と、「宿る」の感覚の恣意的な適用が結びついてしまうのが危険なのだともいえる。

 

かつては、「災い」というのは「みんな」にやってくるという感覚が当たり前だった。

 

もう一度、『中動態の世界』より。P.171。

動詞はもともと、行為者を指示することなく動作や出来事だけを指し示していた。

(中略)

たとえば、「私が自らの過ちを悔いる」と述べたいとき、ラテン語には非人称の動詞を用いた“me paenitet culpae meae”という表現があるが、これは文字通りには「私の過ちに関して、私に悔いが生じる」と翻訳できる(私が悔いるのではなくて、悔いが私に生ずるのだから、これは「悔い」なるものを表現するうえで実に的確な言い回しと言わねばならない)。

だが、このような言い回しは人称の発達とともに動詞の活用に取って代わられていく。同じ動詞を一人称に活用させたpaeniteo(私が悔いる)という形態が代わりに用いられるようになっていくからである。

このような人称の歴史はその名称がもたらすある誤解を解いてくれる。動詞の非人称形態が後に「三人称」と呼ばれることになる形態に対応することを考えると、一人称(私)や二人称(あなた)の概念は動詞の歴史において、後になってから現れてきたものだということになる。

非人称(無人称)で最も分かりやすいのが、英語の「It rains.」(雨が降る)だろう。

かつての英語は、つじつま合わせの「it」も必要としていなかった。

そして、もともと動詞には非人称(無人称)しかなかった。

 

古代においては、INxxが何かを受け取る時というのは、コミュニティ全体が何かを受け取る時だったと考えたほうがよい。

誰が受け取ったのか、というのは行為者を特定しようとする方向だ。

「あの人がそこにいたからだ」というような、うっすらとした因果関係が意識されることはあったかもしれない。

 

現代科学の観点、あるいは社会生活の観点では、他人のスケジュールや社会的な利害関係を完全に無視しているという意味で極めて個人的な「受け取る」であるがゆえに、それはコミュニティ全体の「受け取る」にならざるをえないという逆説があるといえる。

 

なお、日本語では未だに、一人称や二人称を避けて会話するのが容易である。

さらにいえば、三人称代名詞(彼や彼女など)を避けて会話するのも比較的容易である。

 

現代でも「誰か」に起こることと「みんな」に起こることが一致しているものとして、最もイメージしやすいのが天気である。

多少離れていても、「ここで雨が降っているということは、あの人の周りでも今、雨が降っているんだろうな」というのは容易に想像できる。

 

ところで、日本語で「今日は雨。」とだけ言った場合の「雨」は、名詞なのだろうか形容詞なのだろうか。

 

もともと日本語には形容詞、あるいは形容詞と感嘆詞を兼ねたものしか存在しなかった、と考えるとどうだろう。

形容詞から、動詞と名詞が派生していったと仮定するのである。

一部の形容詞が動詞的になれば、それに呼応して別の形容詞は名詞的にならざるをえないだろう。そして、一部の形容詞が名詞的になれば、それに呼応して別の形容詞は動詞的にならざるをえないだろう。

そのようにして、動詞にも名詞にもなれなかったものが現在の形容詞として残っているのだとしたら。

 

この場合、現代日本語の名詞の中で、原型としての形容詞がイメージしやすいのは、「ひ」(火であり日でもある)や「は」(歯であり刃でもあり葉でもある)だろう。

 

動詞がないなら、例えば「肉を切る」ということを言葉では表現できない。

それはつまり、かつては「決定的瞬間」のようなものは、言語が及ばない領域だったのではないか。

それを言語によって表現できるかもしれないという発想すら無かったのではないか。

 

あるいは、かつては災いは「グラウンド・ゼロ」を持たなかった、ともいえる。

 

そして、グラウンド・ゼロの「発見」と、形容詞から名詞と動詞が分化したことと、呪術や祭祀の発生は、すべてリンクしているかもしれない。

 

現代において、形容詞から名詞に転じることが実感しやすいのが、アダ名だろう。

「わけえの」「でけえの」など。

固有名詞と形容詞の区別は曖昧になりやすいといえる。土地の地形的な特徴などを形容する言葉がそのまま地名になっているような例もそうだ。

 

また、神話の中の固有名詞、特に神々の名前は個人の名前というより病名のようなものとも解釈できる場合があり、形容詞あるいは複数の形容詞を組み合わせたものである場合もある。

これにより、日本における憑依の起源というのも、おぼろげながら見えてきそうである。

 

形容詞の羅列だけで伝わる状況は現代においても、ある程度は想定できる。

例えば、「大きい、黒い、小さい、白い」というものを考えてみる。

これだけだとわけがわからないので、この発言にいたった状況を設定してみる。

例えばある集落において、未知の生物が2匹とらえられたのだ。その2匹がとらえられたことは知れ渡っているが、直接見たものはまだ少数である。

そういう中で、その生物を見た人から、まだ見ていない人に伝える言葉として「大きい、黒い、小さい、白い」と言ったとしたら。

これにボディランゲージを組み合わせるとどうだろう。

それは「大きい方の生物は黒く、小さい方の生物は白かった」ということかもしれない。

 

あまりに単純な形容詞の羅列から、ほんの少しだけ変更すると、文章らしくなってより意図が明確になる。

「大きいは黒い、小さいは白い」

 

上記の場合は生物という具体的な物があることが前提なので名詞が省略されているだけとも解釈できてしまうが、以下の例はもっと純粋だ。具体的な物はイメージされない。

「明るいはしんどい、暗いはうれしい」

 

「明るい」は特定の誰かに起こっていることではなく、明るい場所に集まれば「みんな」が明るいと感じるはず。

そして、「しんどい」というのは個人の感想ではなく「みんな」が「しんどい」はずだという表明である。

このように考えると、「大きいは黒い」の「大きい」は、未知の生物を形容しているというよりは、「みんな」が共有しているはずの感想のほうがイメージされているといえる。

 

発言の機会や発言力が平等であれば、誰の感想なのかが曖昧になっていることは大きな問題とはならない。

それはおそらく、所有の概念がなく、ガバナンスを必要としないコミュニティである。

発言力に大きな差がある状態では、発言力が大きい者による「個人の感想」が「みんな」が共有すべきものとして強制されると問題が起こるかもしれない。

これは、差別の起源かもしれない。

 

日本語の基底にある感覚が形容詞の羅列であり、その感覚が現代にも残っているということが、日本語最大の謎とも言われる「私はウナギです」の答えなのではないかと、筆者には思える。

 

「私はウナギです」の「私」は、「私が殺した」という場合の「私」ではなく、自分たちの周りの状況、つまり「みんな」の状況について「私の希望がどのようなものかを答える番である」と形容しているのである。

「ウナギです」は、「私」の希望がどのようなものかについて、「みんな」がどのように共有すべきかを形容しているのである。

「何」ではなく「どのよう」が重要なので、必ずしも注文内容として有効である必要はない。

「私は満腹です」でもいいわけだ。この場合の「満腹」は、私の状態を表しているというよりは、「みんな」が共有すべき「私」の希望について「拒絶ムード」であると形容しているのである。

あるいは、「私は腎臓です」でもいいかのもしれない。この場合、おそらくその発話者は腎臓が悪くて食事制限がかかっており、同席している人は皆そのことを知っているのである。「腎臓」という一言で「腎臓由来の自粛ムード」と形容しているわけだ。

 

「私は満腹です」の場合は「満腹」が直接「私」という人間を形容しているようにも見えるし、「私は腎臓です」の場合は「腎臓」は「腎臓病」の省略形ではないかという解釈も可能ではあるために分かりにくいが、もっと良い例がある。

それは「私は検査です」である。

おそらく、これから検査を受けるから自粛ムードということなのだろう。

 

ここで、約1000年前に書かれた『枕草子』の冒頭の「春はあけぼの」を現代英語に訳そうとすると、おかしなことになるのは何故かを考えてみよう。

この「春」を、単に1年を4つに区切ったものの「名称」を指していると考えると見誤る。

「春は」は、「春について語る番だなあ」であると同時に、「春らしさってどういう感じか、イメージしてみてね」という宣言的な性質を持っている。

聞き手(読み手)にとっては、「春はあけぼの」の段階ではまだそれはあやふやで、春、夏、秋、冬と順番に語っていくのだな、ということが分かるにつれて聞き手(読み手)にとってより明確になっていくのだろう。

「あけぼの」のあとに「が良い」が略されているという解釈は、ニュアンスを明確化する1つの方向性としては有効だが、「あけぼの」をあくまでも名詞として取り扱う姿勢である。

むしろ「あけぼの」という一言で、季節としての「春」だけではなく実にいろいろなものを形容していると考えたほうがしっくりくる。

そして、暗に「みなさんご存知のように、やっぱあけぼのですよねえ」と、「みんな」が共有すべき感覚を宣言しているのである。

英語に翻訳しようとすると、この「みなさんご存知のように」と「やっぱ」の感覚が抜け落ちてしまいやすいのだ。

 

「春は」も「あけぼの」も、ともに宣言的であり、「あけぼの」はあくまでも「あけぼの」という一言によっていろいろなものを修飾しているのであって修飾される対象ではないということを重視するなら、以下のような訳が可能かもしれない。

「Now spring has come, and so we find the dawn.」

 

もともと言語は客観的事実を説明するためのものではなく、物語をつむぐためか、対話のためか、歌うためのものか、呪術的な営みのためにあった。

この4つは明確に区別することはできず、この4つ全てを兼ねるような場合もあっただろう。

 

「私はウナギです」という日本語がなぜ不自然ではないのかを考える上で、これは即興劇のような形で物語をつむいでいる最中ともいえるからだ、と想定してみるとどうだろう。

例えば、注文の希望の代わりに「私は初恋です」でもいいわけだ。

そういう宣言を受けて、「なるほど、それは食事どころではありませんねえ」と、そこから突如として初恋の話に突入するかもしれないわけである。

こういう観点からも、「私はウナギです」と「春はあけぼの」は非常によく似ていることが分かるだろう。

 

即興劇の中での「私はウナギです」をイメージするなら、先ほどの「春はあけぼの」の英語訳を変形して以下のような訳が可能かもしれない。

「Now my turn has come, and you will find my eel mood.」

 

英語において「come」や「find」が実に多様な意味で使われ、日本語に訳す時には直接訳さずに省略したほうが自然である場合が多いのは、これらは英語において中動態の感覚をほのめかすために要請されて動員されてきた単語だからだ、といえるかもしれない。

また、これは筆者自身がそうなのだが、普段日本語で話し日本語で考えている者にとって、ネイティブが書いた英語は簡単な単語しか使われていないのにまったく文意がつかめないことがある。この要因の1つは中動態の感覚の取り扱い方の違いにあるかもしれない。

 

『琉球語は古代日本語のタイムカプセル』(2007年刊)という本には、多数の珍妙な仮説が含まれている可能性があるが、気になる箇所があったので引用する。

以下はP.226より。

古語には、もう一つ「もゆ(萌ゆ)」という語もある。「むす(生す)」が「苔や草が生えること・茂ること」を指すのに対し、「萌ゆ」は「草木が芽を出すこと」を意味する。琉球語の「ムイン」「ミーン」「ミーユン」は「地面から芽を出して生えること」であるが、発音はその両方に近く、その前には両方の意味を含む古い語があった感じを受ける。「むす」と「もゆ」は『万葉集』の頃までに登場した新語かもしれない。琉球語の「ムイン」には「もゆ」の音も「むす」の音も感じられるからである。

残念ながら、紀元二、三世紀頃の日本語の語彙や発音を知る手がかりはない。そのような状況の中で、最も有力な参考資料となるのが琉球語である。全国方言の場合は『万葉集』以降に中央の影響を受けた可能性が高く、あまり参考にならないこともある。どの時代の発音なのか不明なのである。

(中略)

ところで、「地面から芽を出して生える」を意味する「ミーン」や「ミーユン」は中南部地方の発音であるが、元の古語から相当に変化している。北部山原地方に残る「ムイン」は「もゆ」や「むす」の語頭の音に近い音を保存している。北部地方は遅くまで奄美や九州南部の発音に近い音を残していた可能性がある。

また、「生え出る」という場合も首里で「ミーンジユン(萌え出る)」と言うのに対し、北部では基本形が「ムイン」で、進行形では「ムイティクン」と言い、「もえてく」に近い言い方をしている。

何かが発生する時、必然的に行為者は曖昧にならざるをえない。

植物などが生えた場合、生える前にはその植物は存在していなかった。

いやまずは種があったのだ、という解釈は可能ではあるが、その種が自在に歩き回ったり空中を飛び回ったりしている間にちょっとずつ発芽するというような状況は、「萌ゆ」や「生す」では基本的には想定されていない。

 

何かが宿っているのは、生えたあとの植物のほうではないのである。

「場」あるいは「土」や「岩」などに何かが宿っていたから、「そこ」に何らかの進行中の「状況」が横たわっているのだ。

 

もし、「萌ゆ」や「生す」に共通祖先のような語があり、それが形容詞なのだとしたら、まさにそれがここで考えている「受け取る」に近いものといえる。

 

さて、これまで受け取るほうに注目してきたが、配置のほうについてもあまり能動的にするべきでないというのはいえる。

カフェインをたっぷり注入して、さあ、今日も配置をがんばるぞ!というようなものでは断じてない。

配置は、頭の中だけで完結して本人にも意識されないことがあるし、他人からみて夢遊病的な行動である場合も多いだろう。

 

なお、受け取ることが一瞬で、配置のほうは長い時間をかけてなされるもの、とは限らない。

受け取るほうが長い時間をかけて起こり、配置が一瞬であるという場合もあるだろう。

 

さて、これまで説明してきたのは、運命的な「受け取る」とそれを受けての配置である。

受け取って配置するという感覚についてのもう1つの側面、もっとミクロなサイクルにも着目してみる。

 

例えば日常的に、何気ない会話の中において、相手が何か言うたびに配置が必要になる場合があるかもしれない。

 

I型とE型では、外部からの刺激の受け取り方が違う。

E型の刺激は、水面を跳ねるボールのようなものである。

I型の刺激は、たとえ小さなものであっても、ほとんどすべての刺激がいったん水中に深く潜る。ボールではなく、重い鉄球のようなものが水中に放り込まれる状況といえる。

 

そしてI型でかつN型の場合、つまりINxxの場合は、水中でより多くの様々な可能性と結びつき、次々と多方面に分岐していくような経路をたどる。

このような複雑な経緯のすえ、「まあ現時点で水面に出せるのはこれかな」といえるものが口をついて出るのである。

 

ESxxでも、アイデンティティに関わる重要で多義的な質問を唐突にされた時などには、同じようなことが起こるかもしれない。

INxxでは、それが毎回起こっていると考えればよい。

 

INxxが即答する時というのは、あらかじめ用意しておいた答えか、質問にまともに答えていない時である。

そしてINxxが即答した場合は、何らかの応答をしたあとであっても水中に投入された鉄球の潜行と影響の拡散は進行中である場合が多い。

 

E型は、即答するのが誠実だと感じることが多い。

即答できないのは、何かやましいことがあるからではないか、などと思うこともある。

また、I型は感じていることがあまりに多いのに、E型からは何も感じていないように見えていることも多い。

INxxにとっては、常に即答する人というのは、自分にとって有益な存在かもしれないものの、どこか信用できないというような印象を受ける場合が多い。

 

INxxであるあなたが、もし常に即答を要求されるような環境にいるとしたら、そこには長くいないほうがいいだろう。

 

なお、配置という行為には、時系列をいったん解体するという機能もあるかもしれない。

S型の場合は「さあ、今から時系列を解体しよう」という構えが必要になるが、INxxの場合は刺激を受けると同時に時系列を解体する作業が毎回自動的に始まるのかもしれない。

 

I型は外部からの刺激が頭の中で複雑に作用するために、刺激を整理する時間を常に必要としている。

物理的に何かを実際に配置することによって、頭の中の刺激を整理できる時もあるだろう。

 

ここで、先ほどの「私はウナギです」と置き換え可能な発言としての「私は初恋です」をあらためて考えてみる。

 

N型にとってはそんなに意表を突いたつもりがない発言が、S型には「突拍子もない発言」「質問に対する答えになってない」と感じられる場面は多い。

会話においては、S型は基本的な構えが説明するためのツールとしての言語という姿勢で、N型は基本的な構えが物語をつむぐ姿勢である可能性もありそうだ。

 

また、INxxにとっては、自分の周囲に物理的に人がいるという時点で、落ち着かない状況に置かれているといえる。

そういう意味では、INxxが何らかの発言をしているという時点で、そのINxxは演技をしているのである。

必然的に、すべての会話には即興劇のような感覚が反映されることになる。

これは、憑依の起源を考える上でもう1つのヒントになるかもしれない。

 

実際に物理的に集まって、もしくはオンラインのビデオ会議のような形によって、リアルタイムでの言葉の応酬をすること。そこに伴う根源的な嘘くささに、INxxであるあなたは鈍感になってはいけない。

 

INxxに対して「本音で話せ」などというのは到底不可能なことを要求しているといえそうだ。

「本音で書け」ならまだ分かる。じっくり1人で文章を練る機会を与えるというわけだ。

ただしその場合でも、INxxがじっくりと時間をかけて文章を練るなら、隠された問題や新しい方法での抽象化などに意識が向かうことになる。

他人がその文章の中に「決意表明」や「意思」の「表示」などを期待しても裏切られることになるかもしれない。

 

受け取ることと配置のサイクルは、魔術やタロットのようなものについて新しい視点で見るヒントになる。

 

「魔術は本当に効くのか」といった疑問や「魔術は存在するのか」という疑問は、魔術を道具として捉えることが前提になっている。

例えば投石機を使えば、非常に高い再現性をもって、素手で投げるより遠くに石を投げることができる。

そして、使い方さえ適切であれば、誰がやっても同じ効果を再現できる。

 

投石機と同じような道具の一種として魔術を捉えるなら、魔術は存在しないか、あるいは多少効果があるように見えても再現性が低すぎるので実用的でないということになるだろう。

また、タロットは本当に未来を予知しているのか、という疑問も同様である。

 

魔術や呪術を道具として捉えること、そして「未来」を「予知」するという発想から離れ、受け取ることと配置することのサイクルこそが魔術や占いのルーツだということに気づけば、新しい視点が得られるだろう。

 

古代の遺跡などで、現代の観点では意図が分からなくなっているものは多いが、現代を生きるINxxによる受け取って配置のサイクルに着目すれば、今も昔も基本的な感覚は大して変わっていないことが分かるだろう。

 

配置するという行為は、まつり、祭祀の起源でもある。

そして、まつりごと、政治の起源でもある。

 

INxxであるあなたが、何も受け取っていない期間があまりにも長いと感じている場合、環境を変えたほうがいいのかもしれない。

でも同時に、あまり焦らないほうがいいだろう。

「よく考えたら、前回受け取ってからもう何年も受け取っていないなあ」と気づいても、期間が空くことは自然なことなのだ。

 

受け取って配置というサイクルは、常日頃から意識しているべきものというよりは、しかるべき時が来れば必ず受け取ったことが分かり、自分がINxxであることを思い出す、というようなものである。

「そろそろ来るかな?」というような色気を出すと、全然やって来ない。

忘れたころにやってくる。

 

受け取ったことに時間差で気づくこともある。

 

INxxのあなたにとって、忘れるというのはとても重要だ。

忘れるとはいっても、なかったことにするとか、思い出そうとしても思い出せない状態になるとか、そういうことではない。

 

INxxが自分のプロジェクトに熱中していて途中で飽きてしまった場合は、次に何かを受け取るまでの待機期間であり、無理に作業を継続しないほうがいい。

また、INxx、特にINxPが何かに飽きる時というのは、離岸流のようなものがあると考えたほうがいい。

 

急激な流れによって岸から離され、流れに逆らって泳ごうとすると疲弊する上にいつまで経っても岸に戻れないため、危険な存在である離岸流。

 

INxxでなくても多かれ少なかれ離岸流のようなものはあるが、INxPは特にこの離岸流の勢いが強い。

飽き始めている時、何もしないというのは離岸流でいえば泳がずにいったん沖に出ることと同じであり、別のことに熱中するというのは離岸流でいえば流れの方向からみて直角の方向に泳ぐのと同じである。

 

INxxであるあなたは、離岸流の存在によって、自分が何に熱中していたのかすら一時的に忘れてしまうことがあるが、それは自然なことである。

 

そしてなぜ忘れたほうがいいのかというのが、次の心得「3. みんなが知っていることは、知っていてはならない」にも関わってくる。

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ジョークコインとして出発したDogecoin(ドージコイン)の誕生から現在まで。注目される非証券性🐶

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トラベル

梅雨の京都八瀬・瑠璃光院はしっとり濃い新緑の世界

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