NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は2022年7月17日に第27回「鎌倉殿と13人」を放送します。「鎌倉殿の13人」は建久10年(1199年)4月発足の十三人の合議制を指しています。ようやくドラマの本題に入ります。ドラマが十三人の合議制を源頼朝の権力制限として描くか、補佐として描くかに注目します。
古典的な歴史学説は十三人の合議制を二代目鎌倉殿の源頼家は恣意的判断を制限するためのものとして描きました。イギリスでは1215年に君主の権限を制限し、法の支配の先駆けとなるマグナ・カルタが制定されました。今ではマグナ・カルタは近代人権保障の出発点と位置付けられますが、当時の人々が近代的人権を考えていた訳ではなく、貴族達が封建的権利を求めたものでした。ほぼ同じ時期に日本でも主君の権限を限定する動きが出た点は進歩史観の立場からは興味深いです。
これに対して近時は頼家を否定するものではなく、宿老達が合議し、頼家が最終判断する補佐機関とする見解が有力です。訴訟の取次を十三人に限定するという、他の御家人に対する十三人の談合という側面も主張されます。ドラマのタイトルは『鎌倉殿の13人』であり、鎌倉殿の補佐機関との位置づけはしっくりきます。一方で第27回のタイトル「鎌倉殿と13人」は頼家と13人が対抗関係にあるとも見えます。
どちらの視点に立つとしても、十三人の合議制の優れたところは対立関係を包含したものです。鎌倉政権は源頼朝の時代から源氏の嫡流の独裁と坂東の武士達の利益という矛盾を抱えていました。十三人には大江広元や梶原景時ら将軍側近も比企能員や和田義盛、北条時政ら有力御家人も属しています。有力御家人も比企と北条のように対立を抱えています。対立者も包含することは議会制民主主義と重なります。
現実は合議制で政権が安定した訳ではなく、陰惨な一族皆殺しが繰り返されます。冤罪で滅ぼされた一族も多いです。第26回「悲しむ前に」では北条義時・政子と時政・牧の方(りく)、阿波局(実衣)が対立しました。義時は合議制により頼家を盛り立てようとしたが、他の人達の野心によって心ならずも一族皆殺しが起きてしまったとなるのでしょうか。
源頼朝は亡くなる前に政子と義時に頼家のことを頼みました。頼朝の不安は頼家のことでした。自分自身は朝廷に対しても何に対しても恐れることはありませんでしたが、頼家には自分と同じ権威がないことが不安でした。
頼朝は大姫の入内工作や建久二年の強訴で近江国守護の佐々木定綱の配流を止められないなど旧勢力への尊重や譲歩が目立ちます。これは京都育ちの貴族である頼朝の限界と言われますが、二代目の不安のために朝廷の権威が必要だったとの説もあります(呉座勇一『頼朝と義時 武家政権の誕生』講談社現代新書、2021年)。
頼朝が頼みにした政子と義時が頼家の権力制限や殺害を進めることは、美しい行動とは言えません。第26回「悲しむ前に」で政子と義時は頼家を擁立しました。時政の暴走とすることは政子と義時を悪者にしない展開になります。
義時・政子と時政・牧の方(りく)の対立は継子と継母の対立で分かりやすいです。義時・政子の同母妹の阿波局(実衣)も時政・牧の方の側に付いた点に面白さがあります。阿波局は頼朝の弟の阿野全成の妻であり、頼朝の次男の千幡(源実朝)の乳母です。頼家が廃されれば権力が得られる立場です。
頼家を盛り立てるという点では比企能員が正しいことになります。しかし、比企氏も頼家本人を盛り立てようとはしなかったかもしれません。能員は娘の若狭局を頼家に嫁がせ、一幡を産みます。一幡は嫡男とされました。
第26回「悲しむ前に」は辻殿を正室とします。一幡を嫡男としたことは比企氏の強引な横車があったと描くかもしれません。外戚として権力を振るうために、頼家本人よりも一幡を大切にし、早期の権力移行を目指したかもしれません。
十三人の合議制は早期に崩壊しましたが、義時の息子の北条泰時が評定衆として制度化しました。既に頼朝の血筋は絶え、摂関家からお飾りの将軍を迎えています。将軍に実権はなく、権力制限か補佐機関かという議論は意味がなくなりました。評定衆によって義時の理想が実現したとするならば筋は通ります。
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