NHK大河ドラマ『どうする家康』第34回「豊臣の花嫁」が2023年9月2日に放送されました。豊臣秀吉は徳川家康を上洛させるために妹の旭姫、母親の大政所を人質に送ります。「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」の真骨頂となるエピソードです。
天正13年11月29日(1586年1月18日)に天正地震が起き、秀吉も家康も戦どころではなくなります。この地震で飛騨国の帰雲城は山崩れにより崩壊し、城主の内ヶ島氏は一族が滅亡しました。近江国の長浜城も全壊し、山内一豊の娘が圧死しました。自然災害が歴史に影響を及ぼします。
百年前の1923年9月1日に関東大震災が起きました。『どうする家康』は進みが遅く、最後が駆け足にならないか不安がありますが、この時期に天正地震を描くことは防災意識を高めます。
天正地震はNHK大河ドラマ『真田丸』でも描かれました。家康は「猿が来る」と秀吉の侵攻を恐れていた時に被災し、木に登りました。『どうする家康』の家康は於愛を守っています。情けない家康はすっかり影を潜めました。
家康は後に豊臣政権の重鎮として遇されるという歴史を知っていると、この時期に上洛を渋る必要があったのか疑問が生じます。『どうする家康』では殺される危険が現実にあったと位置付けます。戦争で勝てないから暗殺することは十分に考えられます。『どうする家康』の秀吉のキャラクター的にも納得できます。
人質の発案は織田信雄でした。信雄が秀吉に代わって家康に上洛を交渉しますが、交渉が行き詰まった際の材料として出しました。信雄は無能イメージが強いですが、宮下英樹『センゴク権兵衛 21』(講談社、2020年)では大名の取次としての信雄は有能だったと評します。
秀吉は肉親の情が厚い人物と伝統的には見られています。それ故に妹や母親を人質に送ることが苦渋の決断としてドラマになります。しかし、『どうする家康』の秀吉は情がなさそうに描かれています。それは肉親にも一貫していました。妹を役立たずと呼び、母親を人質に出すことを躊躇しません。
旭は相思相愛の夫と離縁させられて家康に嫁がされました。悲劇のイメージが強いですが、家康のドラマでは厚かましさを感じます。悲劇性は感じません。秀吉の策略を感じるのみです。秀吉にとって人質としての価値があるかも疑問であり、上洛したいとは思えません。
家康は旭に冷たい対応をしますが、瀬名を大事に思っていることの裏返しでした。瀬名を大事に思っているならば側室を押し付けられるならば侮辱に感じるでしょう。
家康の気持ちを変えたものは石川数正の思いでした。酒井忠次や本多正信が石川数正の真意を推測します。数正の出奔には徳川家中の派閥争いの敗北という説もあります。数正と忠次は家康の二大重臣として対抗関係にあったとの見方があります。また、この時期は正信が家康のブレーン・外交官として台頭し、数正の地位が脅かされていたとの説もあります。忠次や正信が数正の足を引っ張ったとの描き方がある中で『どうする家康』の徳川家臣団の派閥争いと無縁な姿は清々しいです。
数正が秀吉との戦を回避し、家康を守るためにあえて裏切り者の汚名を被ったとする説は『どうする家康』が初めてではありません。数正の出奔は際どいものがありました。織田信雄が秀吉との交渉にあたっていた三家老を殺害したことは秀吉が小牧・長久手の合戦を起こす大義名分になりました。片桐且元が大阪城退去を余儀なくされたことは家康が大阪冬の陣の大義名分になりました。数正の場合は秀吉の調略に応じる形で出奔したために開戦の口実にはなりませんでした。
戦を回避するために裏切り者の汚名を被ったとする説では家康だけは真意を理解したとする描き方があります。家康も秀吉の臣従しようと思っていたが、家臣団が強硬で抑えられずに見かねた数正が出奔したとする描き方もあります。しかし、真意を理解しても家臣団の手前、裏切り者として冷たく接したとします。
『どうする家康』では家臣達皆が数正の真意を理解します。理解した上で数正を裏切り者と罵ります。「数正のせい」の台詞から『鎌倉殿の13人』の「全部大泉のせい」を連想しました。数正が裏切り者と扱われ続けたという通説を否定せずに新たな解釈を提示する巧みな脚本です。妹や母親を人質に送る秀吉の策略ではなく、数正の思いが家康を上洛させます。秀吉との対決の話と思いきや、数正の出奔の続きでした。
『どうする家康』第33回「裏切り者」石川数正の裏切りは冤罪か
『どうする家康』第32回「小牧長久手の激闘」品性下劣な秀吉が反論するか
『どうする家康』第31回「史上最大の決戦」家臣達の仲の良さ
『どうする家康』第30回「新たなる覇者」茶々の不信感