NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は2022年12月18日に第48回「報いの時」で最終回を迎えました。冒頭は松本潤さん演じる徳川家康が登場し、意表を突かれました。2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』は冒頭で徳川家康が「こんばんは、徳川家康です」と挨拶して話題になりました。
徳川家康が『吾妻鏡』を愛読していたことと2023年の大河ドラマは『どうする家康』であることを結び付けたサプライズです。『鎌倉殿の13人』の時代は多くの御家人達が冤罪で誅殺されました。『99.9-刑事専門弁護士』で冤罪に取り組む弁護士を演じた松本潤さんが吾妻鏡を熟読することは合っています。
承久の乱は、あっさりと進みます。『承久記』では宇治川の戦いで敗走した藤原秀康や三浦胤義らは最後の一戦をせんと御所に駆けつけましたが、後鳥羽上皇は「武士達を入れると御所が関東方に攻撃されてしまう。武士達は勝手にどこかに落ち延びよ」と言って御所に入れずに追い返しました。後鳥羽のために戦った武士達は「大臆病の君にだまされた」と憤慨します。
これに対してドラマでは秀康らを御所に入れて話し、一度は自ら出陣することを決意します。『増鏡』では北条義時は泰時に「(上皇が自ら兵を率いた場合)君の輿には弓は引けぬ。ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ」と言ったとされます。上皇が出陣したら、勝てた可能性がありました。
しかし、上皇は結局、出陣せず、承久の乱は謀臣の企てであったと北条時房に弁解しました。この保身第一の無責任さは朝廷の伝統芸です。後白河法皇は源義経に源頼朝追討の院宣を出しながら、義経が敗北すると取り消しました。頼朝に追及された後白河は「天魔の所業」と言い訳しました。
後に鎌倉幕府を倒す後醍醐天皇も無責任さを継承しています。最初の倒幕計画の正中の変が発覚すると後醍醐は「すこぶる迷惑」と事件と無関係を装いました(『花園天皇宸記』正中元年九月二〇日条)。但し、正中の変の後醍醐は本当に冤罪であったとする説があります。
次の元弘の変でも六波羅探題に捕らわれた後醍醐は面会に来た関東申次・西園寺公宗に「今回の事件は天魔の所為だから、寛大な沙汰になるべきと六波羅探題に伝えてくれ」と述べました(『花園天皇宸記』元弘元年十月八日条)。
さらに後醍醐は建武の新政の時に足利尊氏と対立した護良親王を流刑にします。護良親王は「尊氏よりも君(後醍醐)が恨めしい」と言ったとされます。護良親王は後醍醐の指示で尊氏暗殺を進めていたのに露見して後醍醐に切り捨てられたとする見解があります。
保身第一の無責任な言い訳は見苦しいです。一方で流刑される後鳥羽が「嫌じゃ」と叫ぶ点は人間味があります。フランス革命では多くの人々がギロチンで粛清されました。処刑された人々が誇り高い貴族精神をもって大人しく処刑されたために処刑を命じる側に残酷なことをしているという実感がマヒしたためです。
ドラマは北条義時の死までを描きました。藤原定家の日記『明月記』では伊賀の方が義時を毒殺したとの説を載せています。ここから義時毒殺の予想が出ていましたが、見事に裏切られました。
大河ドラマの主人公は満ち足りた感じで亡くなることが多いですが、未練を抱きながらの死となりました。十分生きたなどということはありません。満ち足りた状態ならば猶更もっと生きたいものである。義時のあがきには綺麗事のドラマにはない生々しさがあります。
終末医療の分野では治療中止(作為)と最初から治療をしないこと(不作為)を区別し、後者は広く認めようという議論があります。これに対しては以下の批判があります。
「治療を中止する意図で電源を切るのは作為で許されないが、治療を中止する意図で新たに電源を入れないのは不作為だから許されるのは妥当ではない」「治療中止の許容性を作為と不作為にこだわって論じるべきでない」(佐伯仁志「治療の不開始・中止に対する一考察」法曹時報第72巻第6号、2020年、19頁)。
毒物を飲ませて殺すという作為は行われませんでしたが、不作為も作為と同じように苦しめて死なせる行為です。
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