あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。2023年の初詣はNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に因み、埼玉県さいたま市大宮区の大宮氷川神社に行きました。源頼朝は治承4年(1180年)に土肥実平に命じ、氷川神社の社殿を再建して社領3000貫を寄進しました。
治承4年は頼朝が挙兵し、石橋山の合戦で敗れるも安房で再挙し、房総半島を北上し、武蔵国に入って鎌倉を本拠とし、鎌倉殿と呼ばれるようになった年です。南関東に独立政権を打ち立てました。武蔵国一宮の氷川神社の社殿再建は南関東の主として権威を示すものになります。
近年では鎌倉殿となったことが鎌倉幕府成立のメルクマールとして重視されています。朝廷から征夷大将軍という称号をもらったことが重要ではなく、武家の棟梁としての役割を果たすことを重視します。故に大河ドラマのタイトルも『征夷大将軍の13人』ではなく、『鎌倉殿の13人』になりました。
土肥実平は挙兵当初から頼朝に合力した腹心中の腹心です。石橋山の戦いで敗北した頼朝を真鶴岬から安房に逃しました。
頼朝は建久8年(1197年)に氷川神社に神馬神剣を奉納しました。建久8年は頼朝の長女の大姫が病死した年です。頼朝にとっては神仏の加護を求めたい時でしょう。
氷川神社のある場所は、当時は武蔵国足立郡と言いました。武蔵国は大まかに言えば東京都と埼玉県を合わせた領域です。足立郡は埼玉県鴻巣市から東京都足立区までの細長い領域です。郡衙は埼玉県さいたま市桜区大久保領家にあったと推定され、それ故に「領家」という地名になっています。
この足立郡を勢力下に置いた御家人が足立遠元です。遠元は武蔵国に入った頼朝を出迎え、武蔵国足立郡を本領安堵されました。これは頼朝が最初に本領を安堵した例です。本領安堵と言っても元々の足立郡の支配権は強固なものではありませんでした。
足立という名字からすると先祖代々足立郡に土着しているイメージがありますが、むしろ当時は新しい領地の地名を名字にする傾向がありました。たとえば北条義時が江間義時です。足立氏には足立郡司の子孫との説があるものの、京都から来た中級貴族が土着した説が有力です。
遠元は武蔵国留守所惣検校職の畠山重忠と結びました。遠元の娘は重忠の妻となりました。この関係で足立郡の中でも郡衙のある埼玉県さいたま市桜区は重忠の飛び地のようになりました。桜区には重忠に由来する地名が残っています。
桜区町谷は重忠の居館の城下町があったことに由来します。
桜区宿は重忠の居館があった頃に家が軒を連ねて宿のようであったことに由来します。
桜区道場は重忠の領地であった時に観音像が出て、持仏堂(道場)を建てたことに由来します。
また、桜区には日向というバス停がありますが、重忠の家臣の真鳥日向守に由来します。
遠元は平治の乱で源義朝の陣営で戦う武士でしたが、文士の素養もあり、公文所寄人になっています。二代目鎌倉殿の源頼家の時には十三人の合議制のメンバーになりましたが、文士の素養があるためでしょう。坂東武士の鑑と称される重忠との連携は補完し合うものでした。
畠山重忠は元久2年(1205年)に冤罪で滅ぼされました(畠山重忠の乱)。この前後に遠元は引退します。「死ぬどんどん」と言われた『鎌倉殿の13人』では珍しく生きたまま退場しました。第36回「武士の鑑」は重忠の死だけでなく、遠元の引退も描かれました。
遠元は政子に「執権殿は恐ろしい。私や畠山が邪魔で仕方ないのです」と言いますが、政子は「あなたのことはさほど重きを置いていないと思いますよ」と答えました。『鎌倉殿の13人』では笑いのシーンで終わりましたが、武蔵を支配したい北条氏にとって足立氏も邪魔でした。
足立遠元の孫の足立遠政は丹波国佐治庄の地頭職を得て、承元三年(一二〇九年)に武蔵国足立郡から丹波国に移住しました。これによって足立郡は北条氏の領地になりました。豊臣秀吉や徳川家康が外様大名を遠隔地に転封することと同じような政策を北条氏は既に行っていました。
『鎌倉殿の13人』第35回「苦い盃」畠山重忠の冤罪
『鎌倉殿の13人』第36回「武士の鑑」冤罪の追及にも陰謀が必要