NHK大河ドラマ『どうする家康』第8回「三河一揆でどうする!」が2023年2月26日に放送されました。第1回「どうする桶狭間」、第4回「清須でどうする!」に続いて、3回目の「どうする」タイトルです。松平家康は本證寺から年貢を取り立て、これに抗議した一向宗徒が三河各地で一揆を起こします。
家康は自分が三河の主ということに固執するだけで、ダメっぷりを露呈しています。第7回「わしの家」で家康は百姓のふりして本證寺に潜入するために汚い恰好をしたところ、当の百姓達から汚いと笑われました。百姓のことを理解していません。「百姓は財の余らぬように不足になきように治むる」と支配の対象としか見ていない家康の農民感が出ています。
冒頭は今川義元との回想シーンです。家康は一向宗寺院の守護使不入の特権を打ち破ろうとしますが、そこで義元を出したことは巧みです。義元は分国法「仮名目録追加二一条」を制定し、今川領国の秩序維持を行っているのは足利将軍家ではなく今川氏であるとして、守護使不入を全面否定しました。
義元は昭和の時代劇では旧時代の権威を大切にした公家風の人物と演出されることが多いですが、守護大名とは異なる、戦国大名であると自己定義した革新的な武将でした。義元の薫陶を受けた家康が守護使不入の廃止を進めることは自然です。
一方で義元は民を主体と考える人であったことが明らかになります。これも家康の以下の思想に通じるものです。
「天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らば、もとより家康が本意にしていささかもうらみに思うことなし」
三河一向一揆は一向宗の信者の家臣達を動揺させます。一向宗側に立つ家臣も出ます。この時代の家臣は「君、君たらざれば、臣、臣たらず」の自由があります。江戸時代の主従関係や戦前の忠君よりも進歩的です。
榊原小平太は仏罰を恐れず、意気軒昂です。寺院に入っており、宗教のプロパガンダの欺瞞を理解しているのでしょう。「進む者!榊原小平太」「退かざる者!榊原小平太」と自己アピールも上手です。松平家の重臣ではない家柄から徳川四天王となるにはアピール力も必要でしょうか。
家康の未熟ぶりが目立ちます。家康が名前を呼び間違え続けたために離反する家臣が出ます。瀬名には「おなごが口を出すな」と言います。現代ならば炎上する発言です。瀬名からも「あほたわけ」と言われてしまいます。
服部半蔵には「忍びであるなら常にその辺におって、呼ばれたらサッと現れよ」と言います。忍びを都合の良い存在として扱っています。忍び扱いされること自体が半蔵には不満です。
『鎌倉殿の13人』は終盤になってブラックになった主人公から視聴者の心が離れました。『どうする家康』は序盤から視聴者の心が離れそうです。
本多正信は足の怪我を理由に家康側で戦うことを渋ります。「出てけ」と言われて出て行き、「本当に出ていくやつがあるか」と言われます。『麒麟がくる』で明智光秀は「帰れ」と言われて帰りました。それと重なります。本当に帰って欲しくて「帰れ」と言っているのではないと忖度するような役人体質はありません。
『麒麟がくる』最終回「本能寺の変」
一向宗から家康の家臣に離反を呼び掛ける調略文書は「時は来た」と書かれています。これも光秀の「ときは今 あめが下しる 五月哉」を連想させます。
正信は三河一向一揆に加担し、一揆鎮圧後は三河国を出奔し、諸国を流浪しました。その後に家康に帰参しましたが、武将とすることには支障があり、最初は鷹匠とされました。正信が家康側近として活躍するのは本能寺の変後です。ここからは家康が正信への不信を解くまでに長時間をかけたことになります。これに対して第8回「三河一揆でどうする!」を観ると逆によく正信を許して重用したと感じます。
正信は第5回「瀬名奪還作戦」で登場しました。歴史上の正信の活躍は本能寺の変後であり、この時点で正信を出さなければならないものではありません。しかし、『どうする家康』の三河一向一揆では正信の存在が重要です。第5回「瀬名奪還作戦」で登場させる必然がありました。
『どうする家康』第7回「わしの家」三河一向一揆
『どうする家康』第6回「続・瀬名奪還作戦」命を懸ける母
『どうする家康』第5回「瀬名奪還作戦」本多正信と服部半蔵
『どうする家康』第4回「清須でどうする!」広過ぎる清須城