昨夜はTVで「フィギュアスケート・全日本選手権」男子フリー観てました。
結弦くん、
ちょっと心的制約を受けていたかなと感じましたね。ショートは昌磨くんの演技に奮い立った感があって、共に神降臨のような最高の演技でした。ネイサン・チェンも逆境から立ち直って油に乗ってきているし、ジュニア(鍵山くん、駿くん)もかなりチカラを付けてきてますから、プレッシャーも相当なモノなのでしょうね。難しいプログラムをこなさなければネイサン・チェンを越えるのは難しいでしょうし、年齢的にもピークに達した?達しつつある?ように思います。にしてもオリンピックX2でよく金メダル取りましたよね。
昌磨くん、
良くここまで復活しましたねー。あのどん底の演技から一年かからずに復活しました。本人もインタビューで話していましたが、コーチの存在は大きいんですね。昌磨くんのような孤高のメンタル(?というか「鈍感力」かな・笑)を以てしても様々な心理的要因を打破するのは、客観的に観れるコーチの助言なり雰囲気作りが必要という事なのでしょう。
コーチは、まずは基本に帰って「滑る事の楽しみ」をベースに雰囲気作りを構築していったように思いますね。その上で能力を引き出すような・・・。ステファン・ランビエル(元世界選手権王者・スイス)、良いコーチが得られて本当に良かった。失敗しても笑っていたしねー。楽しそうに滑っていたのが印象的でした。結果はそうやって付いてくるのですね。
マゴっち、背中からお尻にかけて・・・縫いぐるみのような丸みです(笑)
抱っこしても、まるでコアラです。10kg越え(笑
スマホだけで加工してみました。瞳の中の白点は商店街のイルミーネーション。
年賀状作りました。
12/22 もう黄葉も終わりですねー。
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ライブハウスでHUAWEI P30 Proテスト。
下北沢440(four forty)
16mm広角
69mmにて
244mm 暗くて動きのある被写体ですから、まあ良く撮れてますね。
247mm
この辺りが限界ですね。でも良く撮れているわ。スマホでコレだけ撮れれば十分使えますね。
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瀬川洋は1947年4月14日生まれ。東京都杉並区出身。1966年1月、同じ中学の出身者らで“ザ・モンスターズ”というバンドを結成、府中、厚木、立川などの米軍キャンプのクラブを中心に活動をはじめた。
当初、瀬川はギターも担当していたのだが、やがてヴォーカルのみに専念するようになった。リヴァプール・サウンド、R&B、さらにはラヴィンスプーンフルなどのナンバーまでレパートリーとするこのバンドは、キャンプの中でも有数の人気グループとなった。
やがて、日本のポップ音楽界に嵐のようなグループ・サウンズ・ブームが到来するや、彼らも或る芸能プロダクションにスカウトされ、 “ザ・ダイナマイツ” と改名してビクターからレコード・デビューすることが決定したのだった。
67年11月のデビュー曲「トンネル天国」は、 チャートの73位 (オリコン) に入るまあまあのヒットとなった。結局、ビクターでは計5枚のシングルと1枚のLP( 『ヤング・サウンドR&Bはこれだ!』)を発表したわけだが、セールス的に成功したものは殆どなかった。
彼らは一部のマニアだけが知る通好みのGSとして、都内のジャズ喫茶やディスコで地道な活動を続けていくだけだった。
1969年半ば、瀬川は活動を休止しヨーロッパへ旅立った。北欧を中心に約3ヶ月ほど放浪、向こうの音楽シーンをつぶさに見てまわったのだった。帰国後、再びダイナマイツに参加したものの、(彼の旅行中、ダイナマイツは瀬川抜きの4人で活動していた)、 相変わらずディスコ中心の仕事に限界を感じ、結局、69年の暮れに解散したのであった。
70年に入ってから瀬川は野村光朗(元ダイナマイツ)、北順(元サマーズ)らと“ニューダイナマイツ”を結成。ザ・バンド、ポコ、CCRなどカントリー・ロック、サザン ・ ロック色の濃いナンバーをレパートリーとしていたが、活動の場はここでもディスコであった。
71年6月、瀬川は山内テツの呼びかけにより元ビーバーズの成田賢と二人でヴォーカルを担当したセッション・アルバム『フレンズ』をマリオン・レーベルから発表。
そして、72年10月に コロンビア/プロペラ からリリースしたのがこの待望のソロ・アルバム『ピエロ』だったのだ。フラワー・トラヴェリン・バンド の石間ヒデキ、上月ジュン、サムライの原田祐臣、テツ、PYGの大野克夫、さらに野村光朗など昔からの仲間のバッキング・サポートを受け、当時流行の“自然に帰ろう”をモチーフとした詞を、瀬川好みの南部ロック、カントリー・ロックを志向するバンドが殆どなかった当時の我が国のニューロック界に於いて、彼の存在はユニークなものだった。
このアルバムからは、同時発売で『ピエロ』 c/w「それで良いはずありゃしない」(英題/TOKYO’72)がシングル・カットされている。73年8月には、新録音(A面のみ)のシングル 「君が居た白い部屋」 (英題/WHITE ROOM WHERE WE LIVED)c/w「こんな気持」(英題/SUCH FEELING)もリリースされた。なお、本CDに収録されている 「夢の汽車ポッポ」は当時レコーディングされたまま未発表となっていた曲で、CD化に際してボーナス・トラックとして加えたものである。
その後、瀬川は70年代半ば頃まで「瀬川洋グループ」としてライブ活動を行っていた。’79年 1月 にはキティからリリースされたサウンド・トラック・アルバム 『限りなく透明に近いブルー』に瀬川の歌う ラヴィン・スプーンフルの 「 You didn't Have To Be So Nice 」 が収録。当時ソロ・アルバム用のデモ・テープも録ったというが、間もなく瀬川はシーンから姿を消す。
80年代のネオGSブームや 90年代の物 DJシーンの隆盛などで、何度もダイナマイツや瀬川へのラブコールはあったが、本人はたまに友人とセッションしたり、フールズ(瀬川の弟分的存在で東京アンダーグラウンド・ ロックを代表するバンド)のライブに飛び入りする程度であった。
しかし、アルバム『ピエロ』から25年、ダイナマイツのデビューからちょうど30年が経った97年12月。突如「トラベリン・オーシャン・ブルーバーズ」というバンドを率いて瀬川は音楽活動を再開。瀬川のヴォーカルとギターを中心に、 ブランクを感じさせることのない骨太なロックンロール・サウンドは、和製ヴァン・モリソンの名にふさわしいものだ。サニディ・サービス、フラワーカンパニーズといった若手アーティストとも共演し、98年以降もマイペースかつ堅実なライブ活動を続けている。黒沢進&サミー前田
以上、瀬川洋/ピエロ P-VINE RECORDS(PCD-1580) 98.3.25発売 より、引用。
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うわっ・・・・バンド活動再開からも22年も経ってしまった・・・・・^^;