石割神社
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ざっくりと一般的な神社の情報としては、
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・「神道」、「神社」は「日本古来の固有」のもの。(>実は・・・・いずれ投稿します。)
・「鎮守の森」で代表されるような「土地」「山」「滝」「岩」や「巨樹」などに
神様が宿るという自然崇拝系の神社がある。
・「天皇や皇室の祖先神」を祭神とする神社がある(主に神宮)。
・近年は、「パワースポット」として人気のある神社があったり、「現世ご利益」
を得るために賑わう神社がある。
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というように、とても多彩で神社の全貌を理解している方は一般的には少ないのではないかと思います。わたしも漠然と分かっていたものの、以前にある記事を読んだらスッキリ!したので、かいつまんでマトメます。あまり深入りすると各々の宗教心に触れ、批判的に解釈される可能性もありますので、できるだけ浅めに・・・(笑)
榛名神社境内
洲崎神社のご神体
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神社の歴史を振り返る前に・・・・
私たちの接する神社において、どうしても押さえておかなけばならない「神仏分離令」があります。ここを抑えておくと、なるほど「出雲大社」や「二拝二拍手一拝」の成り立ちが解ります。
諏訪大社下社秋宮(出雲大社ではありません・笑 注連縄は、「出雲大社注連縄保存会」から技術指導を受けているそうです)
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●神仏分離令~~~~からの歴史
・明治元年(1868年)神仏分離令を発布
・神道は混交状態にあった仏教と切り離され、仏教寺院の多くが破却された。
・自然崇拝系である庶民の信仰する山の神や道祖神は、古代に編纂された記紀神
話や延喜式神名帳の神々に置き換えられた。(「八幡大菩薩」
「妙見大菩薩」「熊野権現」「牛頭大王」などの仏教風神号(神の名前)も禁令)
・神社の統廃合も行われ20万弱あった神社は11万社まで減らされた。
・明治政府は、大宝律令(701年)以来の神祇官制度を復活させ、全国の神社を
神祇官(のちに教部省)のもとに統一。しかし仏教宗派の離脱で明治8年には解散。
さらに神社神道と教派神道(神道13派>神道系新宗教教団)が分離分裂、この
両派をもって国家神道体制が出来上がった。
・教派神道で良く知られている教団は、黒住教、出雲大社、御嶽教、、禊教、
金光教、天理教などです。
・その後、儀式所作も統一
明治8年、「神社祭式」=「再拝拍手」とのみ、その後、伊藤博文は
「一揖(いちゆ う・浅い礼)再拝二拍手一揖」を正式な作法とし、概ね現代の形
に近いものが推奨されていた。
・明治40年の改訂を経て、戦争に全国民が巻き込まれていく昭和17年の「神社
祭式行事作法」での改訂では拍手が禁止され、再拝にはじまり再拝で終える作法
となりました。
終戦後、昭和23年、再び「神社祭式行事作法」が改正され、現在、神社が一般
参拝者へ説明・指導している「二拝二拍手一拝」という作法となりました。
宇佐神宮(大分)参拝は一般と異なり、「二拝四拍手一拝」を作法としている。
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いまでも神社とお寺がごっちゃになっている方もおられますが、神仏分離令前は寺社(仏教寺院と神社)は確かにごちゃごちゃだったわけです。近接する神社と寺は、神社が寺の鎮守「明神」となり、仏が「権現」として日本の神の姿をとる、という信仰を形成して、共依存関係で村や国家を守護する役割を担うようになっていました。つづく~
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