全てが思い通りにいくことはないが、全てが思い通りにいかないわけでもない。どんな思いを持ち、それにどれくらい執着するのか、ある程度は自分で決められる。生活自体に金がかかる社会に生きている以上、日常的に考えるのは金のことかもしれない。自分や家族が楽しく生きられる必要最低限の金が稼げる方法は、確立していかなければならない。だが「生計を立てること」以外にも悩みは生じてくるもので、それは「自分がどう生きるか」と「他者とどう関係するか」に集約されると思う。基本的な考え方としては、互いに殺さず傷つけず生きられなくもせず、違っている内容の理解は後回しにしてもいいので、他者と違っていること自体を認め合うことさえできれば、社会においても思い通りに生きることは可能な気はする。だが実際のところ、仕事だ税金だと時間や金銭の問題が哲学的な選択にも影響を及ぼしてくるのであり、及ぼしてくる以上、自分は貧乏人なのだなと思わされるものである。
それでも文章など書いている時は、金のことは考えたくない。現実逃避だが、40年以上生きてきて未だに後回しにしてしまうのは、もう自分がそういう人間だからと思うしかない。何かを表現する時に、金のことを考えるのは楽しくないのである。だから私が書く文章は地に足が付いておらず、頭の中だけで完結してしまうのかもしれない。私が表現したいのはやはり金銭を抜きにした「どう生きるか、どうあるか」という状態に関する思いでしかないのである。そこに集中できている時、私は楽しい。
(なんてことを無料公開とはいえ、仮想通貨が稼げるここで書いてしまうあたり本当にセンスがないなと自分でも思う。でも本当なんだ…)
楽しさを感じる鍵は固執だと思う。人工的な社会と生物としての自然の間で、何にどれくらい固執するかに関わってくる。もちろん金に固執する人もいるだろう。私の場合は自然寄りで、既存の価値観に則すると意味もなく価値のないものごとを、大事に自分の中に保っておくことに固執している。既存の価値観、評価基準に当てはまるものごとは、足場としては活用するに留め有難がらないようにしている。自然という既存の価値基準に当てはまらないものごと、管理し難い予測不可能なわけのわからないものごとを、今はわからないが無視はせずわからないまま保つことで、わかる日がくるかもしれない、と自分が思える状態であることに固執している。要は既存の価値基準にこだわらないことにこだわっているのであり、また自然に起こることが全て偶々だと決めつけないことにもこだわっているのである。自分で書いていてもわかりにくいなと思うのだが、わかりにくい自分であることで他者に否定されてもよいと引き受けてはいて、それも「楽しい」ということなんだと思う。
わけのわからないことが起こり続ける自然がいいからといって、生まれた時から異なっていて個別の経験により遠ざかっていく個人の在り方も、放っておくと人間の秩序を逸脱し混沌に向かうのも自然なのであり、局所限定的に制御する努力をしないと、生きるのが賭けに過ぎなくなったり、傍観者として楽に過ごして終わりそうとは思っている。「個別の経験により遠ざかっていく」というのは、個体に制限された固有の経験の差異は加齢と共に大きくなる一方なので、皆どんどん違っていくということだ。同じなのは違っていくことだけである。ちなみに芸術に普遍性があるというのは、どれだけ固有の経験の差異が大きくても心を動かす様を指すのであり、問答無用の力があるということである。力のある表現にはひたすら己の感知したものを正確に表すことが大事であり、そこに真摯であれば芸術まではいかなくても共感は発生し得るだろう。話が逸れたがこれも個人的に固執している話であって、だから何度も同じようなことを語ってしまうのだろうと思う。
人生万事塞翁が馬というのは「何かが起きた時、大半がするリアクションの逆張りをする」また「その場で結論を出さず価値判断をしない」という生き方のように思える。断定しないまま時が経ち、出来事に派生して新たな出来事が増える程に、自分が思いたいように捉えられる機会も増える。また「いつか思った通りになるだろう」と思いながら、時間切れで死ぬのも趣があるかもしれない。だが結論を出さないことで他者と出来事の理解の共有がし難くなり、また直面した出来事を味わい自身の経験を深めること自体の放棄のようにも思える。全ての出来事がフラットな情報として、自分にとっての差異がなくなっていく。出来事への固執がなくなっていく。だからこのことわざを聞くと「それはそうだろうけど」と反感を覚えてしまう。
責任について考える時も似た感じがあって、要はこの世界にある要素は全てが関連しているので、あらゆる現象の責任は自分にもあるといえるし、また誰にも責任はないともいえる。池に石を投げたら落ちた水面に波紋が現れた、という時、石を投げたのが自分だったら、波紋が現れたのも自分の責任のように思えるが、自分に石を投げさせた理由が明確に他者にある場合もあるだろうし、気晴らしや遊びのつもりでもそもそも池に石を投げることを楽しいと思う人間になった理由があるかもしれない。現象の起点に直接関わっていると思うと自分のせいだと考えるが、現象前後の時間を長い目で見ていくと、それが起きたのは自分のせいではないように思えるし例えば生命の誕生まで遡ったら、やはり偶々起きたことだとも言えてしまう。そういう詭弁や無責任さは、一時的に自分を守る為に使われることもあるだろうが、やはりどう生きるか考える時には持ち出したくない類のものである。自分が生まれてきたのも偶然だし、人間として人間社会に生まれてきたのも自分の意思ではないが、生まれてきた以上「生きるという期間限定の状態を味わう」のか「どうでもいいものとして適当に流していく」のか、選択する必要はあると思う。私は自分が関わる出来事には偶然の要素もあるが、自分が存在することでそうなったという事実は無視したくない。選択に必要なのは何を大切とするのか、何に固執するのかということであり、その場での判断を放棄すると固執がなくなり、固執がないと選択できなくなり…と自分の存在が消えていくのを感じる。存在と出来事をどう捉えるのかは誰でも自由に選ぶことが出来る。
生まれて死ぬまでに体験する現象には、必ず意図を越えた要素が入っている。自分の思惑や心身の状態だけでなく、他者の行動や出会う場所や時間やその他諸々、個人に制御不能な外部の状況もそれが起きるのに必要な要素である。だから偶然「その現象が起きる装置」が成立したというのが、出来事なのだと思う。自分がどんな人間だから、何をしようとしたからこれが起きたというのはある意味正解でもあるが、それだけが何かが起きる理由ではない。ある現象を起こした装置は、誰も意図していない限りは、その時その場所だけで有効に働き、雲のように分散していく。起きた現象を体験した自分がどう判断するのか、良いと思えたら他者との関係性だけでなく、装置自体を保つ努力をするだろうし、嫌なことだったら関連の糸を切り離れようとするだろう。何かが起きた時に一時的に結ばれる見ず知らずのものたちとの縁をどう評価するのかは、自分の自由でもある。その評価を保留し続けああ、結ばれた、そして離れたと眺めているだけでは時間が過ぎる一方だ。もちろん、それでもいい。固執せず評価もせず眺めるという選択もある。固執せず努力しなくても、自分が自由だという自覚を持てていて、今しばらく生きていられる確信があれば幸せである。また目の前の出来事を評価し積極的に関わらなくても、これまで自分が生きてきた時間という長い目で見た時に自分が感じる幸せの総量という感覚もあり、それが幸せ寄りに振れてさえいれば、短期的な目の前のことが幸せでも不幸せでもまあいいかと、トータルで見れば幸せな方だなどと思い込むことも可能である。完全に運任せで生きると決めるのもよいだろう。
自分より幸せにしたいものはそうそう無いが、それが出来ると幸せになって欲しいものとの意思疎通が必要になる。何が幸せなのかの確認も要るし、その為に必要な環境をどう保つかという問題の共有も必要になってくる。自然は予期せぬ不条理を起こす装置も孕んでいるので、何かあった時に幸せを保つには、方策や対策が必要になってくるのである。互いに幸せを願う者同士であれば、具体的に話し合えた方がいいだろう。だがやはり理屈や頭の中で考えた通りにはいかないし、皆忙しく変わり続けている。金も大事な要素としてあるだろう。道ですれ違う人、行き会う人との間に短い縁が結ばれることもあるが、比較的長い時間保たれる家族などの縁も同様で、長い目で見れば道で行き会い期間限定的に出来た足場に過ぎないと思うことも可能である。それでもその状態を保とうというのが、他者との関係性への固執である。
私が楽しく生きる為の固執の持ち方について書いてきた。自分が行き会った出来事や物事の評価は既存の価値基準に合わせた断定はせず、わからないままでありながらも自分の存在やその時の自分と違っている他者との共存可能性を含めて判断し、わからなさも同時に保ち続ける。私が楽しく生きる為と言いながら、自分で書いていてよくわからないので、また違う形で書いてしまうのだろうと思う。なぜ私はこんな人間になってしまったのだろうか