久しぶりの投稿である。最近はTwitterでも長々と文章を書いたりしてはいるが、まだ公開していない個人的なメモは日に日に溜まってきており、大変気持ちが悪い。ならどんどん吐き出せば話は早いのだが、私の言語化の仕方には大いに問題がある。今回はそのことについて書いてみた。もっと早く沢山書けるようになりたい。
私は体験したことに言葉を当てはめてみないと、わかった気になれない。自分が感知した非言語的情報(ひっかかり)に興味があり、可能ならメモを残し何かと言語化しようとする。逆に先に他から得た言葉で納得すると、実際の体験がなくてもわかった気になりがちで、要は頭でっかちである。そういう自分の偏りは、体がある以上環境の影響を受け、避けられず身についてしまったものだと思う。それぞれの偏り(一意性)の中身は違っていても、違っていること自体は普遍的だ。私以外には「わからなくても一向に構わない」が「わかる人にはわかって欲しい」。自分の一意性は基本的に私以外に価値はないが、私が気になったのと同じようなひっかかりを誰かが持ったとしたら、その人が考えたり語ったりする際に、私の体験もフリー素材的に「使える」のではないか。
だが他者の反応から推測するに、私の文章は「当たり前過ぎる」か「意味がわからない」のどちらかだ。私は多分世間一般の「当たり前」の多くに共感出来ていないので、偶に腑に落ちたりすると自分だけすごくびっくりする。また単純に説明が下手で情報が整理されていない為、私の言語化した文章はフリー素材としても使えないだろう。私が説明下手なのは、根本的な話の通じなさ、他者への不親切さ故ではないかと思う。生と名付けられたにも関わらず、人間社会で生きていることへの感謝が希薄なのである。それは誕生時に医者のミスで死にかけた恨みなのかもしれないが、自分の意思で生まれていないということに未だに不服がある気がする。これは1+1=2なんて私は認めてないと言うようなもので、他者と常識を共有し難い。どうしたって仕方のないことにずっとこだわり続けるような、子供のような諦めの悪さがある。そんな社会不適合な人間が、言語化することで「わかってますよ~」と適合している振りをしている。
それでも生きていること自体は楽しく、他者と意思疎通もしたいのである。やたらと意識が抽象に向かいがちなので煙たがられるが、言語化自体は好きなのだ。ただ、とにかく下手だ。これまで書いてきたようなのは「説明」になると思うが、文字を並べて組み立て、家を建てるような方法である。これは構造体として成立していないと建たない。実はこれまでここに上げてきたような長いブログの場合、その記事の段落に設計図的な意図を持った関連性は殆どない。気になったことについて複数のメモを見返し(この時点で意味がわからないものもある)なんとなく関連が見出せそうなものでまとめてそれぞれ文章化し、段落として並べただけなのである。これは建造物に見立てると、関連のない建物の部屋が、無理やり渡り廊下で繋がっている感じになる。何故渡り廊下かというと、とにかく文章が長いので、二階建て以上にはなっているだろうからだ。私の「説明」では、渡り廊下があるように見せかけつつ、床は抜けている。だからよほど論理性に無頓着だったり飛ばし読みをする、文字を追う目(構造物の中を歩く脚)に羽が付いている人か活字中毒者でなければ、基本的に最後まで読まれることはない筈だと思う。真面目な人ほど読み難いだろう。
文章の書き方について、言葉で構造物を組み立てるように書く他には、視覚的に見ながら書くやり方もある。こちらは具体なので比較的わかり易いし、すぐ書けるが、実際に見えていないものは全く書けない。記憶や想像した世界を映画を観ているように追体験し、文字の連なりに変換していくだけである。実際に起きたことや実際に想像したことの場合は、出来事を構成する現象に論理的なつながりは必ずしも必要ではない。日常で直面する出来事は大概が不意打ちで想定外の要素を持っているし、どういう因果で自分の前に現れたのか定かではない。つまり「変なこと」が起きるのが自然であり、想像で書くにしても視覚的文章の場合は、読者は語り手という乗り物から見える景色を追いながら進むのは一貫して最後まで変わらず安定している事実だとも言えるので、どんなに突拍子の無い景色が目に入ったとしてもあまり気にならないのだと思う。こちらの文章などは記憶を再生して書いたものなので早かった。自主制作映画をやっていたこともあるが、元々は視覚的な書き方が好きである。
視覚イメージに意識が向きがちな人間が抽象的な文章を書くとどうなるかというと、どれだけ抽象的な語句であっても純粋な意味だけでなく、余計な視覚イメージが付いてまわる。本来なら抽象的な構造物の部品として語句の正確さを確認し、組立の精度を上げながら論理的に積み上げていく必要があるのに、語句の意味から連想された「自分の経験からくる印象」が作り上げたイメージが、本来の語句の意味を歪め始め、書き始めた最初に「書くことでわかりたかったこと」の発見を邪魔する。論旨に関係ない方向に脱線していくのである。また脱線以前に、全く関係のないイメージまで出てくる。夕方に古い戸棚の中に見つけたいつのものかわからない飴玉とか、動いてないメリーゴーランドの内側にいるような薄ぼんやりした丸い暗さの下で噴出し続ける噴水とか、雪の上で食パンの真ん中を手で摘まんで毟ったとか、書いてることと全く関係のないものが、文章を組立てながら浮かんでくる。無視しなければいけないとわかってはいるのだが、一旦そちらに意識をとられてしまうとダメである。最初に何を書きたいのかわかっていないので、論旨を進めるのは猶更難しい。
それでも頑張って抽象的な文章を書こうとするのだが、成功したと思えることは殆どないと思う。思う、というのは例え意味不明な状態であっても一度書いてしまうと、すっかり忘れてしまうからだ。また悪いことに前述した通りの他者に対する不親切さにより、それでいいとどこかで思っている。気付きや気になることが有り、頭の中で文章を書く。書き留めておきたい、と思っても、書く前に忘れたり、書いても正確に表現できなかったり、うまく書けた気がしても全然他者には伝わらなかったりするが、その時そのやり方で表現しようとしたという事実だけでも、どこか満足している。言語化した分、頭から追い出せてはいるのである。不親切だし、わかってもらおうとしていないのに読ませている時点で不誠実だ。むしろ抽象的な語句から浮かんだイメージを視覚的に書いた方が読む方としては面白いのかもしれない。それも私の頭の中で本当に起こったことであるし、なんだかその方が楽しそうではあるが、意味がわからないことは変わらないし、当初の自分でわかりたいという目的は果たせない。
「わからなくても一向に構わない」というのは本当だが、この言葉を盾に理解してもらえる書き方の努力をサボっているのも本当だと思う。具体を記述していく映像的な方法より抽象的な「説明」の方が多かったのは、具体では私に見えていないことは書けないからだろう。それで抽象的な誤魔化しをして、格好つけていたのである。なぜそんなことをしてきたのかといえば、自分を大きく見せたかったからではないかと思う。それか「面倒くさいやつ」と思わせることで、他者に放っておいてもらいたかったのかのどちらかだ。自分が何に引っかかったのか、書くことでおぼろげに見えることもあれば、結局わからないまま中途半端なこともある。はっきりしないことはずっと引っかかったままであり、これからも折に触れメモをしていくのだろう。これまで言語化してきた文章の中にも、同じ気になる根から出た、本当に関係のある部分は散逸しているだろうから、拾い上げて編み直すことは出来るかもしれない。そして地道に建てていけばいつの日か「一体自分は何をわかりたかったのか」がわかるのかと言えば、やっぱりそんな日はこない気がする。それは私が身の丈を越えたものに憧れている限りは変わらないのだと思う。正直な話、自分には何か面白いことがわかり、それを表現出来るに違いないという根拠のない自信は20年前には確かにあった。10年前にも薄々そう思っていたかもしれない。だが実際に行動したり、言語化したりを繰り返すことで、只の頭でっかちという自分の偏りがわかった。書くことで自分への幻想が壊れ実際の姿が明らかになるのなら、やはり言語化は意味があると言えるだろう