私は未来を想像することが苦手である。未来どころか何も考えず酒を飲み、今だけに浸っていることが好きというクズである。でも素面の時には食べ過ぎないようにするとか、収入と支出を気にするくらいのことはしているようで、いま目前の行為の帰結としての未来くらいまでなら想像できる。その程度の想像力があれば、とりあえずは生きていけるようである。しかしとりあえず生きていけるからといって、よりよく生きていけるわけではない。よりよくとは、自然環境を壊さずできれば再生する方向で、外国とも折り合いをつけ共存可能な方向で、誰も苦しまなくても生活が回る社会を作る方向で、子供に生きてて楽しいと思ってもらえる教育ができる方向を向いたありかただろう。いずれも想像していま出来ることから繋げなくては実現しないことであり、自分の人生中に実現しなくてもそちらへ向かおうとしていたら、少なくとも自己満足はできる。以下は誰かと話したり検証した結果ではなく、自分の経験から勝手にそうかなと思っているに過ぎないことだが、中でも生きる上での実感に大きく影響する、自我の在り方についての文章だ。具体性がなくよりよい人生の実現には遠過ぎるようだが、私はそういうことからしか考えられないのである。エゴイスティックなクズであることの開き直りのようにも思えるが、果たしてどうなのだろう。
自我は記憶から作られる。自分が何かの選択をした記憶、何かこだわりをもった記憶が自我の主な材料になる。外部刺激へのリアクションとして意識が生じた時は、自我を参照することで意識の自己同一性を保っている。ものごころつくというが、ある程度多様な経験が積み重ならないと自我は生じないのだろう。参照される自我は形状記憶的であると同時に、新しい記憶によって時に知らない内に形を変えていく。ゲームにおけるセーブデータのようなものだと思う。多分自我がある場所は脳だ。細胞分裂の度に上書きされ保たれているので、脳の老化や損傷、化学物質の過剰摂取などによりアクセスできなくなると自分が誰なのかわからなくなる。それとは別に、記憶へのアクセスができなくなると、自我の維持は難しくなっていく。
人格は自我の外側に作られる。他者の存在がなければ恐らく必要のないものであり、社会に参加する上で他人に自分を説明する為に必要とされ求められる。自分が所属する社会の規則や他人のふるまいを参考にして、損得勘定により半自動的に社会の建前に合わせて作られる。その際、その社会の常識やルール、ジェンダーロールなども刷り込まれる。人格は主に外部とコミュニケーションする目的で作られるので、外部とのやりとり経験が増えていく。社会的な人格を介する経験であっても、自我のこだわりによる選択が行われているため、人格による行動も自我を形成する記憶の一部になる。社会に求められていると思っている規範や常識なども自我に内在化されていく。社会と書いたが自分が生まれた家庭から既に刷り込みがある。お兄ちゃんなんだからとか、男なんだからとか、言葉を覚えていくように、親や地域やメディア、国から刷り込まれていく。自分の中に内在化したものについて、後々客観的に検証できるかは、内在化の時期や期間、程度によるのだろう。
人格はネット上にも作られる。SNSのアカウントにはプロフィールが設定され、アカウントにはSNSでの活動が記録されていく。ネット上の人格がある場所は脳ではなくサーバーである。閲覧者が物理的に遠ければ遠いほど見られる情報が制限されているため、恣意的に自分の特徴を示す事実が取捨選択されていく。「こうだったらいいな」とか「こう見られたい」とか、脳内の自我の望みや好みが無意識に反映されている。時には嘘や誇張も混じるが、ネット上の情報はそういうものとして見るべきであり、他人の人格が実際の自我とどれくらい隔たっているのかは想像してもわかることではない。経済的に利用する目的で作られたり、作成者が既に死亡していたりと、ネット上の人格は現時点で実在しているものかも定かではない。定かではないゆえに虚実入り混じった人格が、社会的に重要なものとして、個人の自我に対して影響を及ぼし続けている。
人格に寄り添った振舞いをすることを演じているという。私は1981年に青森の家族の一員としてこの見た目で男性として生まれたことがあまり気に入っていなかった。刷り込みにより田舎や方言は恥ずかしいと思っていたし、男性であることも面倒くさかった。食うに困らない環境で、家族にも受け入れられていることは有難いと思っていたが、社会的な人格を自分の気に入るように作ることができなかった。やがて仕方がないことは受け入れ、色々なことを相対化して考えられるようになっても、自分の人格を固定して、人格を演じながら経験を積み上げていくことより、人格を(ひいては社会を)放棄して、ただ自我の赴くままに生きていたいと思う人間になった。クズの誕生である。最初はそんな自分を嫌った。「オラこんなオラいやだ~」と東京に出たものの、不安は募り酔う為だけに飲むことが習慣となった頃、舞台に出会った。人前で演じる経験をした時にわかったのは、役者としての演技とは与えられた役の人格のふりをすることではなく、その人格として生きることだった。物語において自分がする言動は事前に決まっていても、その言動をするような感情が自分の中に自然と生まれるようにならなければいけない。必要があれば調べひたすら想像して、感情の流れを一時的に自分の中に記録していくのであった。だが自分の人格にすら固執できない人間に、演じることはできない。結局「何を考えているのかわからない役」しかできず、私はただそこにいて、生きて見せる体にしかなれなかった。演じるということは社会生活において、とても日常的なことなのだということを知った。
自我は世界に対応するため、人格は社会に対応するために生じてきたものだ。では意識はどうかというと、五感や記憶からなる異なる情報の統合の為に生じる機能だと思う。その意識が、社会的に誰であるのかの参照先が人格であり、人格を設定するのが自我だ。ところで私は木の葉叢が風に揺れてざわざわしているのを見るのが好きだ。これも前に書いたかもしれないが、ざわざわを見ている時は時間の感じ方が変わり、それに伴い自分の感じ方も変わる。普段意識している自分の人格や自我がゆるゆると消えていき、ただそこにいて死ぬまで流されているのだと感じる。社会的な人格、外部に対応する自我も消えるとただただ気持ちいいのだが、これは端的に言うと死である。いずれ必ず起こる死では肉体と共に人格も自我もなくなる。酒に泥酔するのは周囲に迷惑がかかるし、認知症になるのは自身の不安も強いが、完全にボケて生きる日常は人格から、老衰や病気で死ぬ瞬間に意識を失くす体験は自我からの解放である。それはさっぱりとして気持ちがいいことなのではないだろうか。夜眠る時の快感にも通じる。
だから私はアル中もボケ老人もどこか羨ましさを持ってみている気がする。自我や人格を失くすことは気持ちがいいのである。だがやはりそれだけでは生きていけず、他人の力を借りられないと死ぬだけであるとも思う。よりよい生き方をしようとする自我や人格にこだわりを持ち、時に手放して癒されることがあっても、終わったらすぐまた参照して取り戻すにはどうすればよいのか。多分今直面している問題について考え、自分の言葉で語ろうとすることだろう。歳をとるにつれて、どうでもいいと思うことも増えていくし、好き勝手にふるまうことも増えるのかもしれないが、いつか完全に消滅することは決まっていると思えば気も楽である。いつでも飛べばいいやと思えるからこそ、よりよい生き方、人格、自我にこだわってみるかと思えるのではないか。癒しの為に空虚に拡散しては、また固執に向かって凝集し、充実する私を生きている。空虚と充実を「行き来」するのが生なのだろう。別に悪いことではないが、空虚だけでは死である。踊り念仏の一遍上人は「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで踊りたくなるうれしさなのだ」などと言っていたらしいが、念仏に忘我してまた我に返った時は、阿弥陀の教えに固執することを徹底していたのだろう。私は一遍のように「理屈上は既に救われている」ことへの絶対的信は持てないが、自我の意識がある内は「(私は)これでいいのだ」と思える何かは持っているのだろうと思う。その何かは何なのか、なぜそう思えるのか。絶対的信を持てず私を疑い続けるという、哲学的な態度をとることにこだわっているだけなのかもしれない。