私は平等主義者である。フェミニストである。だがそれは自分が好ましい人間だからではない。私が差別を否む根っこには、自分が他人に放っておいてほしい気持ちがある。他人に余計な口を出されず、自分の時間を好きに使いたい。社会人として他人の為に自分の時間を使うことはある程度仕方ないし、困っている時にはむしろ積極的に助けを求めるだろうが、基本的には放っておいてほしい。私が差別を否定するのは、ただ自分事だからである。
困っている状態は解決したいとは思う。だが他人への共感力が弱いのか、どうせ理解できないと思っているからか、私には対人能力が殆どない。だから解決につながる活動をしている人を見つけて寄付をする。だが集団の一員にはなりたくない。集団内の暗黙の了解やルールを共有するのが苦手である。ただそういうものがあるな、という空気はわかるので、可能な限り距離を置くようにしている。普通、常識というレベルでもそれがあると思う。ただ非常識と非難されたとしても、やはり一緒にされたくない気持ちがある。
妻は私と対称的に、対人能力がある。他人への共感力もずば抜けて強い。また正義や志を同じくする仲間を重んじていると思う。妻が舞台俳優をしているのも、その能力を思えば当然のことのように思える。更に俳優としてだけでなく、表方としてどんな仕事でも対人能力を発揮できる。だがその反面、世界で起こる悲惨な出来事を知るとダメージを受け、動けなくなる。裏方の私との共通点は、事実に立脚して考えようとするところと、経済的な損得勘定で動かないところだ。傷つきやすいところも似ているかも知れないが、対処法は全く異なる。
妻は子供の頃から沢山の動物がいる家で育ち、沢山のぬいぐるみを愛してきた。
今も家族として家にいるぬいぐるみたちについて、考えたことがある。
(参照)https://namanari.hateblo.jp/entry/2019/09/15/152343
「生きていると思えば生物」という考えは、証明できることではないので非科学的だが、実感としてはある。なぜ実感があるのだろうか。ものを思うことや表現することには力が要る。その一方で表現されたものや、表現しようとする行為そのものにも力が有る。思ったことを自分の外側に出したり、外側に当てはめてみることは、自分の中で生じた力を外側に伝える行為のように思う。ぬいぐるみを生物として扱い大事にすることは、命を与える温かな感じのする力だが、他人を物として扱い誹謗中傷することは、命を奪うこともある冷たい力である。
『風の旅人』という雑誌を作っていた佐伯さんが、いのちについて書いていた。
(参照)https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2020/06/21/000954
「霊的エネルギー」というものは佐伯さんはあると言っている。「こうやって生きていられる理由」として。機械的な説明だけでは説明がつかないと言う。生命を維持する為に摂取するエネルギーだけでは、人は生きていけない。感情があるからである。
この力はどこから来るのかというと、私は人の不完全さからではないだろうかと思う。人は全ての事実を認識できるように出来ていないので、認識できない事実と事実の間を想像で埋め、現実とし補完する。補完するにあたって、当人にとって事実と思えるような想像をしなければならない。それは事実に近いものになる可能性もあるが、事実ではない。事実ではないが事実と思い得るほどの想像は、ひとつの創作である。外部刺激へのリアクションに過ぎなくても、また本人が無自覚であっても、想像することで些細な有を無から作り出している気がする。
この機能が元々与えられた「生物として生きていく力」を増減させ、感情を刺激し外側に表出される。人間はそういう装置なのではないか。日常生活ですら些細な創造が行われているのだから、物語のような意図的に作られた創造などは、人間の認識にとって大変な影響力を持つのである。そう思ってみると、事実だけ見ていないで、想像もしっかりしていきたいような気がしてきた。何にも考えはないけど、映画を撮ろう。そして妻に出てもらおう、と呪文のように思った。