暖かくなるとテーブルを蟻が歩いていることがある。サッシの隙間から食べ物を嗅ぎつけてやってきたのかもしれないが、私は毎日壁のある公園で球投げをしており、公園のベンチでぼんやりスマホを触ったりすることもあるので、体に乗って家までやってきたのかと思ったりもする。顕微鏡で口腔の細胞を観察する時、PCで描く絵の細部にズームする時、単に体を洗う時も体の一部が意識の中で広大な場所になる。誰かに体を貸す時、妻と布団で横になっている時にも、自分の体が場所であることを思う。ぬいぐるみと共に。
子供の頃住んでいた町には古い建物がたくさんあった。城下町らしい武家屋敷や、外国人教師の住居、地元の建築家がデザインしたコンクリート作りの建物などがあった。市街地には緑は少なかったが、田んぼや畑は点在していたし、城跡の公園は部活の練習場所でもあったので、緑の中に横たわることも多く、全ての建物は虫や草花も住み得る土の上に建っているのだと感じていた。
中でも町の中心部にあるコンクリート作りの文化センターが好きだった。学校の行事や舞台公演があると出向いた。みっしりと外部を遮断している部分も、意図的に外に開放された空間もある。階上から景色を見る時には外に目をやるより建物を振り返り、人が入れない部分を探しては自分がそこにいる想像をしていた。建物の内部は人が行き来している。入れ替わる人間より古びながら残るコンクリートの建物の方に興味があるというか、人より偉いと思っていた。
場所としての偉さというのは何なのか。人間の寿命を超えて固定されて残っていることなのか。この世界で起こることは全て偶然である。何が起こるかわからないし、なるようにしかならない。そんな世界で「こうあれ」と誰かが固定したものが、残っていることが立派だと思う。人が入り込まない隙間に燕が巣を作っていたり、小さな生き物の家にもなっているのも偉いと思う。意図的にそうなった訳でなくても。自分の体より広い場所には、住むことができる。
現在住んでいる家は、日当たりが悪いのが不満である。日当たりだけが理由ではないが、夫婦揃って沖縄に住みたいと思っている。限界集落は安くて広い家があるかもと思って検索すると、やんばる(本島北部)の限界集落が紹介されていた。だが、集落を盛り上げようと奮闘する、町おこしの感じが合わない。沖縄生まれや現在住んでる人、年の半分は沖縄にいるアル中や、一時期沖縄のゲストハウスで働いていた旅人などの知り合いはいるが、定住しながら適度にほっとかれる場所は、そう簡単には見つからないかもしれない。とりあえず訊いてみようとは思う。
昨日夜更かししたので眠い。眠い時には理想の死に方を考える。妻にはもう話したが、自分が死にそうになったら海の前に連れてってもらえると有り難い。きっと癌だから痛い時には、自宅でモルヒネを打てるようにしたい。体が効かなくなるまでは海の近くで、生活の事だけして過ごしたい。途中で子供ができたら夫婦以外の友達や、周囲の大人たちと適当に育てられたらいいなと思っている。だからそれなりに風通しのよい場所がいい。子供とは、コンピューターゲームも楽しみたい。ゲームの中は時間も空間も制限がなく、大好きな場所だった。意識すると、全てが場所である。