社会では、その中で当然とされる「常識」を価値観に取り入れるよう求められる。それは商品パッケージのフィルムのように表面に張り付いたものであり、属する人の力関係が偏った結果出来上がったものである。全て剥がして残るものは「ただ自分が生きている」ということでしかないのだが、「常識」のルールや精神性を体現しているような人は求心力を持ち、自分でも影響力を持っていると思ったりするようである。影響力のある人が仮止めの価値観を強め、絶対的なものとして固定化しようとする。この価値観の固定化作用、同調圧力が個人のふるまいを制限してくる。社会とはそういう場所であり、以下はその「常識」やルールについての話である。物理法則などは含まない。
ルールは基本的には生活や安全に関わるものであり、これから生まれる人たちが否応なく従わされるものでもある。生まれてきた時に自分の意思は存在しないので、新たに生まれてきたものが社会のルールに従う義務は本来はない。だが「自分はひどい目にも合わず死ぬまで楽しく生きることとする、というか死なない」などと決められるわけもないので、生きる為には自分が生まれてきた社会のルールに従わざるを得ない。ルールが刷り込まれてしまうとそれだけが正しさだと思いこみ、他者に強制する側に回ってしまったりもする。親には勝手に作った新しい命を守る義務があり、新しい命に対して謙虚になる必要があると同時に、子が自力で生きられるようになるまでに様々なルールの存在や例外、その限界などについても教育しておかねばならない。
ルールの根底にある「常識」には、無為に生物を殺さない、環境を壊さないといった基本的なもの以外は、相反するものが複数存在している。異なる「普通」が存在しているのはよいことであり、問題は「常識」の内容が検討されないまま変わらないことだ。変わらないというのは、正しいと思いこむことであり、正しさは間違いを否定し、排除する方向に動く。正しさは戦争にも通じるものであり、警戒していないと基本的な「常識」すら覆す可能性を常に孕んでいる。
「常識」はふるまい、しぐさ以前の心の有り様に関わってくる。例えば自転車でコンビニに入ろうとすることは迷惑だが、ドライブスルーのような自転車専用コンビニがあったら、システムやルールが準備されることで迷惑ではなくなるかもしれない。これは新しいシステムが生まれてルールが変わったということであり「常識」が変わった訳ではない。公の場では他人に迷惑をかけないようにしようという、心の有り様については変わらない。
この「常識」のおかげで、自分も他人から迷惑をかけられないし、環境も保たれるから正しいのだ、なんて思ったりもする。だが正しさというものは一時的に安定、安心するものかもしれないが、先に書いた通り警戒すべきものであり、同時に変化がないのでつまらないことでもある。「なんだこれは」という偶然による衝撃はそこかしこに存在しているし、時に衝撃に耐えきれず周囲に迷惑をかけざるを得ないこともあるのが自然だ。迷惑をかけるのがよい、と言っているのではなくルールというのは、常に守られるものではあり得ないということである。
社会においては常識以前に、まずは生物同士でコミュニケーションがないと、つまらない。コミュニケーションは安定していると平和だが、やはりつまらない。極端な話、ぶつかり合い、けんかしないと、つまらないのだと思う。愛する、愛されるというのも、意思疎通の集積に負うところが大きい。そこに「正しさ」が入ってくるとやりとりは途端に剣呑なものになる。命の奪い合いや傷つけあう手前のやりとりに収める為のルール、収まらなかった場合に対処する為のルールも存在しており、それは法律と呼ばれている。ルールは固定的であってはならないし、破られても仕方ないことでもあると同時に、やはり社会においては必要なもののようだ。
「常識」やルールなど、目に見えないものが社会ではものを言いがちだ。貨幣も信用という目に見えないものである。個人に見えるものがあまりにも限定的なので、目に見えないものを用意しないと社会では生きていけないのか?と思ってしまう。わかりあえずけんかをする、前提が違うのだからそれは仕方がないことであり、その機会を「正しい」ルールが奪ってはならない。ここでは触れられなかったが、「常識」や既存のルールを変え得る新しい技術や芸術も、守られなければならないというルールもある。目に見えず無数に存在し、変化や消滅もするし、逃れ難いもの、それがルールである。社会においては必要なのかもしれないが、まことに鬱陶しいものである。