忘れることは私的には癒しになることもあるが、他人にとっては全く無意味なことである。facebookには「去年~数年前の同日にこんな投稿してました」とお知らせしてくる機能がある。去年の6/10に「できるだけ素の他人が見たいと思う。ドキュメンタリーというかノンフィクションというか、自分で自分をルポタージュしてる感じか。純粋に感情や好奇心の動いている様子が見たい。」とあった。そうか。一年経ってもその気持ちは変わらない。
文章を書くと「純粋さを求めて整理されたもの」になりがちだがそれはよい。当事者が当事者の意志で公にする文章は面白い。目的がなくても構わない。何の為にならなくても、忘れてしまうよりずっとよいと思う。先日SNSでシェアした「無名の遺跡」にも通じる、営みの記録である。文章だと嘘かホントか探るのも面白い。下記に今日の自分の行動を書いてみた。
いつもは日没前に行く球投げに、今日は昼下がりに出かけた。家では妻が伊藤野枝などアナーキストの本を読んでいた。梅雨時だが雲から偶に顔を出す太陽の日差しは夏で、肌の焼ける感じが嬉しかった。いつも玉を投げる壁がある、フェンスに囲われた一角はやはり幼い子供たちが占領していた。近所に幼稚園もあるし仕方ない。夕方を過ぎるともう少し年長の子供たち、その後は更に年長の若者がやってくる。コンビニで缶チューハイを買って、別の大きな公園のベンチで飲んだ。沢山のベンチでお喋りに興じているのはおじいさんばかりで、周囲に向かってきょろきょろ目を光らせていた。ルッキズムや性差別を考えた。ダメ元で別の公園に向かってみた。
いたるところで道路工事が行われていて遠回りさせられる。急いでる訳でもないので新鮮な感じがした。途中、蔦に覆われた空き家の写真を撮って、facebookのグループに上げた。八幡神社の前を通って曲がると、また別の道路工事をしていた。目的のグラウンドに着くと、子供の姿はなかった。見るとグラウンドの外側で水風船で遊んでいる。ラッキー。壁に向かって球を投げ、汗をかいて楽しんだ。いつの間にか髪が伸びていた。 子供たちと入れ替わり、水場で頭から水をかぶった。近くのベンチには少し年上のおっさんがいて、ずっと独り言をどなっていた。
家に帰って妻と話をして、うどんを500グラムも茹でて、みょうが、ねぎ、豆苗、サラダ、からあげと一緒に食べた。夫婦そろってものすごく腹が一杯になった。