私には友達がいない。というか、友達の定義が自分の中で定まっていなかった。どんな人とも同等だし、中には志が重なる人もいるだろうが、志が同じであることは特別なことではない。人生の時期毎にそれなりに長い時間を共有し「これが友情か」と思える人はいたし、傍から見れば「それは友達だ」と言われるだろう関係は今でもある。だが一人で対処できないことに遭遇した時、助けを求めるのは助けてくれる人(可能性の問題)であり、逆に私が助けられる相手は助ける。必要な時に頼り合う相手は、友達である必要はない。誰とでも助け合えると思っていたので、友達の必要性を感じたことがなかったのである。それは私が男性で、男性優位に作られた社会で生きてきたことと無関係ではない。フェミニズムに触れるまで、私は女性が押し付けられてきた不平等だけでなく、違っていることで責められるような、未熟で歪な社会での生きづらさを感じることもなかった為、とても楽天的で性善説寄りの思考回路になっていたのだと思う。みんな違ってていいよね、で思考停止しており、違っているそれぞれについては、深く掘り下げたり自分と重ねたりすることが殆どなかった。
漫画『作りたい女と食べたい女』で描かれる、女性二人の虚飾ない関係の持ち方や、相手への心遣いはとても細やかで優しく、いいものだなあという気持ちになる。最近発売された2巻を読んだ後、欲望を肯定し合える相手を友達というのかな、と思った。作品では今後この女性二人が、友達以外の関係性へ変化するのかどうかというところでもあるが、ともあれ正直に表に出した「自分の欲望を受け入れてくれる他者」であり「自分に受け入れられる欲望を見せてくれる他者」を友達の定義としてもよいのではないかと思った。受け入れてくれる欲望の内容と機会の頻度、その他(偶然)により、他者との関係性は知人から友達、または恋人などへ変化していくのかもしれない。そういう気付きというか、思考のきっかけになった。
一方で私が欲望を表に出すのは、基本的に一人の時である。目の前の食べ物や本、こうして文章を書く時も、知らない他者に向かって欲望を露わにしているが、物理的には一人であることが多い。それが育ちのせいか生来の性格かはわからないが、欲望を表に出す行為を眼前で目撃されると恥ずかしさを覚える。外食など、外で欲望を出す時には当然のごとく自然に栄養摂取しているように見えるよう意識している。食べている時に周囲に一瞥はくれるが注視はせず、行き会った他者の視線誘導すらする。また酒を飲んだりもする。食事に限らず没頭して自意識を消さないと、恥ずかしさが消えない。さすがに食事くらいは自然にできるようにはなったが、ともあれ常に恥ずかしいのが私なのである。誰かといる時に欲望を積極的に出せないから「何を考えてるかわからない」とか「どういう人間かわからない」と不信感を持たれるのかもしれないと思う。欲望が不明瞭な人と友達になりたいとは、自分も思わない気はする。
ちなみに前述と矛盾するようだが、己の肉体を保つためや、人として種を継続するための行為は、ただの仕組や仕様であって、恥ずかしさを覚える類の欲望ではないとも思っている。ただ食べる、まぐわう等に上乗せして、見栄え良く食べたいとか、格好つけたいとか、余計な欲望が追加されているので恥ずかしいのである。そういう類の欲望は自然には存在しない余計なものだから、本質的に恥ずかしい。社会的な欲望は架空のものを求める気持ちであり、自然からの逸脱、支配、もしくは無視(逃避)だ。仮にそれらをロマンと呼び、死ぬまで追い求め、結局かなわないと悟って死ぬのだとしても別に何の問題もないだろう。ロマンそのものを否定したいとも思わないが、人の欲望は概ね不自然なものであるということだけは、意識しておきたい。出会った人を否定したことは殆どないが、少し話しただけでは他者の欲望を否定していると捉えられることも多いので、やはり私は友達になり難い人間なのだと思う。
自分にとって不自然な欲望は出来るだけ求めず、満たさない方が楽で楽しい。性でも食でも架空の想像には限りがなく、例え小さな欲望でも、一時的に満たした気分になってしまうと、より大きな欲望を求めるようになる。脳に快感物質が出て、それが習慣になってしまうからである。習慣を変えるには、欲望を覚えた時にそれが本当に自分が求めているものか、確認するとよいと思っている。自然に沸き起こってくる欲望については個人差もあるかもしれないが、少なくとも誰かに意図的に働きかけられた結果、欲しくなっているということは誰にでもあると思う。それが当然、常識という顔をして、求めるよう自分に強いてくるようなことも、あり過ぎるくらいある。
他者の意図に踊らされないようにしていくと、社会から距離を置くことになったりもするが、完全に離れては生きていけないので精神的な距離は置きつつ、出来るだけ自然な自分を保つことを求め始めるようになる。社会に身を置いていても、不自然な欲求は意識して満たさないことを続けているうちに、ただ生きているだけで楽しくなる。もちろん自分も他者に無意識に踊らされているところはあるし、自分も他者に欲望を起こそうとしたり、そうして生まれた需要を供給することでお金をもらったりもしている。ズルいという自覚はあるが、建前の共有が出来る相手となら、駆け引きを楽しむこともある程度は可能である。だがやはり不自然は疲れる。他者に存在しなかった欲望を生み出し、疲れさせる行為や物語に存在価値があるのかは謎だが、それはそれで現実の私を生かしているわけで、これが業というものかと思う。
自然に翻弄されるのは嫌ではないが、人工的に監視されたり制御されるのは嫌だ。気を付けないと操られるといった脅迫的な危機感はないが、ほどほどに注意しないと消耗して社会では生きられないとは思っている。家の居間のAppleTVでYouTubeを見るようになってから、妻とアカウントを共有し始めた。共有することでアカウントの再生動向が変わり、おすすめされる動画や広告も変わった。おそらくまだGoogleも、アカウントの性格を統合的に判断するところまではいってないと思うのだが、ひとつのアカウントをふたりで共有することで、ネット上の性格をあいまいにできるのは面白いような気もする。あいまいでわかりにくくなるほど、欲望を刺激しようとする他者からのサジェストも的外れになり、安心である。Googleはけして友達ではない。
他者からの介入を完全にブロックするのはネット上では自然な行為だが、相手が人間だった場合にもそれをやるのは不自然過ぎる。不自然な欲望をできるだけ無意識から排除したいと思いつつも、私の中にどうしようもなく残る欲望はある。このように文章を書いて、ネットに上げることである。私が恥ずかしさを覚えずに自分の欲望を表に出せ、さらに他者からの介入も可能な状態にできる唯一の行為のような気もする。ちなみに面と向かって文章の感想を言われると物凄く照れるので、やはり恥ずかしいことなのかもしれない。ただ、この一方的な欲望の発露を受け入れてくれる(読んでくれる)人は、自分にとって友達になり得る他者、と思っていいのかもしれない。もちろん、私も他者の欲望を受け入れる必要があるわけだが、面と向かってそれをしているのは、妻くらいのものである。だから妻は友達でもある。友達はいた。