思いつきの切なさは、書こうとすると忘れてしまうところだ。未来は常に来ていて、過去になっていく時間をどう編むのか、今、今、今見えない編み棒をどう繰るのか、それが意識の働きであり、思いついたらまず行動というのは、それに即した生き方である。だから書いている場合ではないのだが、書かなくても忘れてしまうし、せめて思いつきの残滓だけでも留めておけたらと思う。
私が書く理由は、生理的なものだけではない。書かないと私は私の偏りにより他者に理解されないままであり、書くことで逆に煙に巻くこともあるが、基本的には私がこうしているのはこういう経緯があるわけなんです、とわかって欲しいからである。そういう経緯があるんだねと、安心して放っておいてもらう=社会における私の自由の確保の為でもある。存在理由は本来、説明されるべきものではない。個人の意図や作為を越え、存在しているから存在している。だが人間社会においては、思考回路が同じ人はいないのに、自分と同じように考え、感じるものを評価しがちである。自分と異なるものの価値観を軽視したり、優劣を付けようとするのは不自然な自己満足に過ぎない。そうわかっていたとしても、異なるものに理解されないまま、黙って馬鹿にされたままでいるのも、癪に障る。要は私は、馬鹿にされるのが悔しいのである。格好つけた書き方になるのも、馬鹿にされたくない気持ちの表れなのだろう。
そんな訳で私は私ほどくだらない人間を他に知らないが、私の偏りについては信じている部分もある。私が最もリアリティを感じるのが自然だ。草花など人以外の生物や人の手の入っていない場所だけではなく、意図的なものから離れた「何故かそうなっている」状態を自然と感じる。私の存在も含め全ての現象は、人の意図を越えたもので、私ごときが固執して残るものなど何もないという、無常観や無力感がないとリアリティを感じられないのが私の偏りである。それらが強すぎて「生きる」ことが下手だったが、「居る」ことは上手だったと思う。変化を受け容れさえすれば居ることができる。変化を怖れないのはそれが自然と思うからであり、それでいいと思いたいからである。私が居ることに飽きないのも、変化の多様性と一回性を意識している為だ。居ることは容易いが、生きることは難しい。変化や喪失を前提として、何かに固執する必要がある。路傍の石も流れ星も物質的には大差がないだろうが、それがどこにあるか、どんな状態であるか、そして何より誰が観察するかで価値が変わってくる。価値なんてそんなもので、リアリティなんてそんなものである。そんなものだと思った上で、こだわればよいのだろうと思う。自然発生的な現象として形を成しているくだらない自分に固執し、変化に抗うことができたら、生きることができる。結局は変化してしまったとしても、抗った事実に変わりはない。
自分が死ぬまでの時間という縦軸と、他者も含めた環境という横軸を、現在の意識のガイドとしながら、自分の偏った価値観や思考回路で、変わりゆく全てに対応していく。全て変わっていくとはいえ、変わりにくいもの、変化に時間がかかるものもある。自分の内面を構成する価値観などもそうだ。価値観が変わる程の衝撃を受けた時、足元が揺らぐとか、立っていられないとかいうのは、無意識に価値観を建物に見立てているのかもしれない。今自分が真っ直ぐ立っているつもりの場所は、経験から出来た仮の足場に過ぎないが、よく練られたコンクリートのように時間をかけて作られた、好きなものなどは変わりにくい。そこに固執してみるのである。
繰り返しになるが、居ること自体は難しくはない。現象として顕在化している自分を受け入れる。そこから更に生きる為には、自分と自分を含む環境を好きにならなければならない。好きとは時限的な固執であり、保つ努力をしなければ変化に負けて「どうでもよい」と見失ってしまう目付である。そこで顔である。一気に私の個人的な偏りの話になってしまうが、私は物心ついた頃から自分の顔が嫌いだった。私が自分の顔を好きになるには、女性的なかわいらしさが必要だったのである。何故かはわからないが、創作物においても「女性にしか見えない男性」というものに最も心をときめかせており、実際の自分とのギャップに絶望し諦めていた。すっかり慣れたつもりだったが、未だに自分の顔が好きではないことに気付いた。そこでなるべく日常生活に支障の出ない範囲で、出来る限り男性ホルモンを抑制する方法がないか探し始めた。共通の知人がいる詳しい方に相談した結果、プラセンタ注射を試してみることにした。他にも舞台関係の知人にも性転換手術を受けた方はおり、精子の冷凍保存やホルモン治療についても具体的に聞けそうではあるが、完全に女性になりたいわけではないしそこまでは必要がない。以下は相談メッセージの一部である。
私は昨年子供が生まれた40歳の既婚男性です。基本的には異性愛者であり、自分が男性であることは受け入れていますが、私にとって(また家族にとっても)男性ホルモンは出来るだけ抑えた方が幸せなんじゃないかと考えるようになりました。理由は私自身の自分の体についての不満にありますが、社会的に有害な「男らしさ」を私もパートナーも評価していない(子育てに不要なものを持ち込みたくない)ので、外見からもその要素を減らしたいという希望もあります。抑制について考えるようになったのは、先日Netflixでクイア・アイの最新シーズンを観ていて「これまで一度も自分の体を自分で愛せたことがない」と思ったことにあります。多くのアメリカ人のように(偏見かもしれませんが)積極的に自分を愛したいとは思えないですが、自分の体をもう少し肯定的に捉えたいと考えるようになりました。今年はちょうど本厄ですし、積極的に変わりたいなと。
私は物心ついた頃から自分の体(特に顔)が不満でした。私の理想の外見は、初めて好きになったアイドルの中森明菜のような華奢で綺麗な女性であったと思います。中性的と言われたりモテない男子に迫られたりしたことはありましたが、かわいいと自分では思えませんでした。それは性癖?として「女性的な美しさを持つ男性」に憧れていたからかもしれません。幼少期に見た中国映画『新桃太郎』で女性が演じた主人公、兄の持っていた漫画『ストップ!ひばりくん』のひばりくんや、小学生の時にハマった尾鮭あさみのBL小説に出てくる、女性のような男性に憧れ、そうなった自分を夢想していました。歳をとるにつれ、顔の造作も性別も仕方ないことだと、また社会的に要請される「男らしさ」に適応する為、無理やりラグビーなどをやったりしながら自分の体を受け入れていきましたが、それは自分の体や外見を楽しむ喜びを捨てるということでもありました(ラグビーは楽しかったです)。いまだに鏡で自分の顔を見るのは苦手ですが、例外的に毎日のように見続けていた時期もあります。それは思春期ではなく、ある演出家のワークショップにて、女装趣味の設定を与えられ、その設定でしばらく生活していた30歳頃のことです。ダイエットし化粧を覚え、友人から譲り受けた女性の服を毎日着ていました。その時に思ったのは、かわいいと言われると嬉しいということ、女性に見えるようにするには、大変な時間と労力が要るので、しんどいということでした。
結婚して子供が出来た現在、傍目には落ち着いて見えると思います。加齢によるあれこれも出てきましたし、今更外見にこだわったりすることもなかろうという気持ちでいました。ただ先述の番組を観たこともあり、自分を自分で好きになりたいという気持ちと、押し付けられてきた「男らしさ」への恨みとそれを受け入れてしまった自分への怒りなども思い出し、根本的なホルモンの抑制ができないか、と考えたわけです。女装をしていた頃のようにダイエットしたり、化粧を頑張るといった方向の変化ではなく、素材自体を本来の私の理想に近づけ、性別不詳な状態にすることができないかと考えています。髭は生え始めた頃から抜き続けていたり、コルギ的な顔のマッサージはやってきましたが年齢不詳にはなっても、現状性別不詳は難しいようです。もし何かご意見、ご感想など頂けましたら、大変有難いです!ご検討の程、宜しくお願いいたします。