私は他者と同化することが怖い。同調圧力にもストレスを感じるが、その場限りの建前で済ませられる場合には、自分を殺してやり過ごすこともできる。同化のどういうところが怖いのかというと、思いつきで行動できる自由がなくなることよりも、質的に同じ者として他者にみなされることで、自分の歪な部分が存在していないように感じられることが怖い。自分というのは本人がこういうものです、と思っているだけでは存在し得ず、他者からどういうものだと見なされて顕在化すると思っている。
何かに没頭して自分が消える状態が至福ということと、自分の歪さが無くなるのは恐怖ということは矛盾しない。没頭は一時的な状態だが、それ以外の大半の時間を生きる自分の歪さがないと、何かを好きになったり夢中になること自体ができない。歪さや質が似ている、位ならまだいい。同じような人もいるし、「似ている」というのは前提としては「違っている」ということだからだ。説明するのは難しいが、部分的になら同じところもあると見られて構わない。例えばいつか死ぬ存在として人間をしているということ、同じ自然の一部と見られるのはいいが、共同体の一員として同質とみなされるのは嫌だ。期間限定で合わせる振りをしたり、物語やニュース記事などで「ある状況が語られる他者」にその状況に限って感情移入することも出来る。意図的であれ偶然であれ一時的、部分的に同じだと思うことはできるが、そう思っている自分の質が、対象の質と全体的にまた永続的に一致することは有り得ない。
端的に言えば、帰属意識が持てない。社会不適合、特別な自分でいたい中二病気質といった方がわかりやすいかもしれない。他者に自分の歪さを認めさせつつ違っているものとして放っておいて欲しいし、違っているものとして交流もしたい。他者と交流するのは一人では生きていけないからだが、同化はしたくない。同化を拒み続けていたとしても、近くにいるものの影響は受けるし染まるものだとは思う。それでも同じではなく、場の中心からもズレ続けていたい。何も自分の異なり方が非凡であるとか、価値があると思っているわけではなく、ただ違っていたいのである。社会では建前として違っていてもいいとは言われるが、同じ方がいいと言われることはあまりない。そういうのはスポーツ観戦とか政治的多数決とか、敵対関係とか権力が臭ってくるような場面で、態度として求められる。苦手だ。集団では中心を目指すこと、集団におけるその時の価値基準に最適化し、影響力を持つことがよしとされがちだ。それは別によいのだが、それ以外の価値観を持つものの存在も認めてほしいと思う。
だが私の場合は、権力志向とは何ら関係のない、互いに親密さを深める為の同化や期待ですら苦しい。これはやはり集団で生きるものとして異常なのかもしれない。どんなに普段は意図的に傷つけたり殺したり貶めたりすることを否定していても、私の歪さ自体が他者といることでストレスを溜めていき、結果として他者を害してしまう。同質化を迫られているわけではないのかもしれないが、そう感じてしまうのは私が極端にビビりなのか、極端に中二病なのかもしれない。私の肉体が存在する場は日々変化する人が偏って出来たものであり、場自体も日々変転している。それは複数のものが集まる所でも、自然における川でも、一対一の個が向き合う生活でも同じだと思う。他者と自分が重なる部分をどう持ち、変えられない自分の歪さをどうするのか、方法を探っていく可能性はまだあると思いたい。