社会は嘘の集合体である。正確に言うと、人間の不完全な現実認識を利用した建前や物語の集合ということになるのかもしれない。これは国レベルでも個人レベルでも言えることで、地政学的な必然や歴史的事実も、一番最初まで遡ると「そうでないこともできたのにそうなった」という意味では偶然としか言えないのであり、社会とは偶然現実化した事象に対応する為に形成されてきたものだと思う。
個人が認識できる現実は限定的だが、主観的な事実が全てだと主張すると、他人に「それは嘘だ」と言われる。集団を維持する為に、断片的な現実が恣意的に編集されることもある。現実を参照して作られた虚構も日常的に存在しており、利己的に他人を騙す為にも、利他的な娯楽を構築する為にも利用されている。
別に「全部嘘なのだ」などと嘯き得意になりたい訳ではない。嘘という言葉には感情的なイメージや経験が不随するので、そもそも相応しい言葉ではないのかもしれない。でも人間には現実そのものを完全に言い表すことが出来ない以上、まずは限定的な主観による現実の解釈がなくては、どんな人間関係も社会も成立しない。認識が不完全であること自体が嘘を生じさせ得るのだから、「よりよい社会」や「よりよい人生」などを志す為には、自分が限定的であることを意識した上で、如何に建前や嘘と向き合っていくのか考える必要があるのではないかという話である。
嘘は目に見えないが確実に認識に影響を及ぼす。世の中には洗脳という技術もあるくらいなのだから、自分の知らないところで頭の中で現実と認識されている嘘もきっとある筈である。嘘や幻想の他にも、個人的な願望や理想、社会的な常識や普通という概念が、認識された事実に影響されて変化し、時には境界を曖昧にすることもあると思う。頭の中は常に混とんとしている。
認識も限定的であり、地理的な条件も刷り込まれた常識も異なる不完全な人間の集まりである社会もまた不完全なものである。この世界は何ひとつ同じものがないように出来ているので、自分の経験の自覚が他人の自覚と同一になることはなく、それぞれが自分のことのようには他者のことを思えないという事実がある。だから表現することで無意識の思い込みも明らかになり、限定的な自分に気付くことができる。都合の悪い事実やそれを見ようとしない態度なども明らかになってくるだろう。そういう意味でも表現ってすごいと思う。
実際に会える他者には限りがあるが、表現を得て他者が思う現実を想像することに限りはない。そこには客観的な事実も主観的な嘘も混じり合っているだろう。正しさも共感も必要なく、知られる、知っているだけでよい。現状に即して変化する自分の状態を表しながら、他者の表現も受け入れ続ける。個人では容易に把握し得ない現実も、複数の人が把握しようとすることで精度の高い現実が浮かび上がってくる。社会がそういう場所であれば納得である。納得なんてクソみたいなものだが、生きている間に求める唯一のことだとも思う。