社会で生きることは闘いによく例えられる
望ましくない仕組を変える権力に対しての闘い
単一の基準に従って優劣を競う闘い
社会を市場とみなし自らを商品として売り込む闘い
私は怠惰なので負けで全く構わない
私が闘うのは私の自由を制限される、されかねない時だけである
負けを受け入れているのは、未来志向とも言えるのかもしれない
だが次代に譲る場所を今の自分が占めているのかといえば
物理的な場所以外には思いつかず
それはいずれ譲れるのだから悩む必要はない
ただ、社会に身を置きつつ引き際を見極めようとはしている
自分や家族の状態を観察して
どう終わりたいのか考えることだ
人生の終わり、ゴールを設定しようとすることである
いつ死ぬかは誰にもわからないので
日々何かしら文章を書くということは
遺言を更新してるといえるのではないかと思う
もし私が災害ではなく病気や事故で死んだ場合
死んでからの希望は遺体は好きにしてください
借金はできるだけしないように頑張ります
今のところ遺言は一行で書けるが
希望とは別に今のこれが最後の言葉になるかもしれないとは思う
もし生きている内に現在思っている希望を書いたら
家族が故人の遺志をくみ取る材料になるかもしれないが
苦痛に悩まず生きていられるだけで幸せなので
その状態が保たれていれば他に要望はない
敢えて言うと、個人的には、杉の木のようになりたいとは思う
長生きしたいわけではなく、在り方として木のようになりたい
ただそこにいて、伸び伸び呼吸していたいと思う
なぜ杉かというと神社でよく見るからである
神になりたいとかではなく、大きな木に憧れるだけである
私が書く内容の殆どは私が何を思ったかに過ぎない
これまでは表現にテーマは要らないとずっと思ってきたが
最近はゴールは要るのかもしれないと思い始めている
それは坂口恭平の影響であり、彼は杉の木のように私には思える
坂口恭平は頭の中をリアルタイムで公開しており
その生き方、無責任さも含めて惹かれる部分が多い
何より非凡だと思うのはアウトプットの分かりやすさであり
明確なゴールを設定して行動しているからだと思う
書きながら考えをまとめていくというスタイルや
結論がどうなるかわからないということとそれは矛盾しない
どういうことを言いたいのか、どういう自分でいるのが好きなのか
どういうことをすれば他者が喜ぶのかを経験から明確に知っており
行動し他者を動かすことで起きる奇跡を楽しみにしている
全てが偶然でそこに意思はないとする考え方よりまともだと思う
彼は自分には価値を見出さず、流れを起こすことに見出す
実践しながらそれを信じて疑わない姿に感動する
だから私も表現の目的を見据えている必要があると思った
アルベルト・ジャコメッティ、九鬼周造、坂口恭平なのかもしれない
個人的に無意味なものが好きとか、そういうこととは別に
その行為が無意味だと自分で思っていたとしても
少なくとも目的に自分の望みが表れているのであり
表現することでそれが明らかになる
表現すること自体が目的であってもよいが
今回はこれをこういう形にしたいという気持ちがないと
気持ちがないと表現はできないと思う
私は文章を書く時に完成形が見えたことが一度もない
入試の小論文も、映画のシナリオもそうだった
ただいつも見えない気持ちがもやもやとあるのだけは感じる
それは誰もが一緒なのではないのだろうかとも思う
だから遺言とか書くとドキッとする人もいるかもとは思う
もやもやの内容が自分を実際より大きく見せたいとか
しょうもないことだった場合、書くのは時間の無駄である
ただ透明でガス状のもやもやを納得できる形に固定してみたいとは思う
その結果何かを起こしたいとかはないので、ただの自己満足だが
それでいいじゃないかと思っているので、消費者万歳である
情報の消費者であることに満足している
消費者は心地よい刺激をくれくれいって疲れない
提供者はサービスの塩梅に神経を尖らせ疲れる
消費者でだけいることは、社会的には負けなのだろう
何も変わらなくても構わないといっているのと変わらないと受け取られる
私は有用な社会人にならないといけないとどうして思えなかったのか
多分最初から建前に過ぎないのではと疑っていたし
学校が終われば目的がなくなって死ぬとずっと恐れていたからかもしれないし
それでいいやとどこかで腹をくくったのだろう
家族の在り方の影響もあったのかもしれないが
生きてるだけで幸せだったので、自分がどうなっても全然構わなかった
「発見」は生きる喜びだったが、学究に喜びを感じるというより
自分が知らなかったことを知ってへえーっとなるのがこそばゆくて嬉しい程度で
誰もまだ見つけてない新しい発見を、自分がすることには欲望が動かない
そういう意味での開拓精神がないのは、
我が強いことの現れでもあるのかもしれない
ともあれ喜びを感じるのは、あくまで自分の中での発見に留まる
私がなかなか映画を作れないのは、
自分が集団を引っ張るのが苦手だからだろう
人が集まると楽しくなって浮かれてしまう
集まれただけで嬉しいので関わる人に申し訳ない
いずれ少数で個人的な映画を作るのだろうと思う
文章は一人で書けるのでそういう意味では楽である
文章を書く時に読者として想定しているのは時間に余裕のある人
わかりにくい文章を読むのが好きな人
社会から要請されるこうあるべきから逃れたい人
目的がないので問題の解決には役立たないと思うが
こんなやつがいるのだと知ってはもらえていたと思う
文章を書いている時は書いてない時よりは興奮するが続かない
嬉しい時、楽しい時は世界が狭く盲目的になるなあと思う
常に私の狭い了見から見えたことしか書くことはできないので
誰もが驚く新しい普遍的な事実など私の頭の中にはない
もしかしたら~かもしれないは、自分には適用されないのであり
常に面白いことを期待するのは自分の外側、
それも個別の他者ではなく、ただ起こる偶然に対してである
好きなものだけ身の周りに集めて、
好きじゃないものは排除または無視する
内容と程度にもよるが、そういう傾向自体はまあ仕方ないのかなあと思う
誰もが限定的で偏った視点からしか世界を観られないのだから絶対はない
何もわからないまま死ぬんだなあと思う私にとって
一番正解に近いものは「自然」であり混沌であった
何が起こるかわからないしなるようにしかならない世界において
ある状態に意味を見出し一時的に固定して見せるのを喜び
また消えていくのが生なのではと思っていた
生命維持、親しい他者の安全や幸福の確保
自分で担えなくなる前に別の担えそうな他者に託し
死ぬまでの安泰を確保しようとする
また自分のことばかり書いているが
どうしてそうだったのか、時間が経つと説明できなくなる
記憶は自分の都合のよいものに勝手に改ざんされていくからだ
プロ野球選手が今日のヒーローとして打席を振り返るとか
他者に請われてあれくらいのタイムラグがせいぜいなのではないだろうか
だから書いた、としかいつも言えない
最近もSNSで失敗する人をよく見る
中には私などよりずっと賢い人もいるので
賢者が失敗した時の振舞いに学びたいと思う
昔から子供に質問される想像をよくしている
死んだらどうなるの?という問いには、わからないと答える
雷に打たれて生きていた人や、クマムシのことなど教えたりするだろう
だがわからないから、それは宿題だとかいうんだろう
坂口恭平は死者と話せるらしく、死んでも終わらないよと言っていて絶望する
ともあれわからないことは答えられない
何の為に生きてるの?という問いには、楽しむためと答える
何故生きてるの?なら答えは偶々だが、奇跡の結果とは言える
そこにはきっと何か答えがあるのだろうと思う
目的を持っていなければ、奇跡は起こらない
奇跡を起こしたいなら、行動あるのみだと子供に教えたい
私にもそう言えるような実績が作りたいのである
表現の目的は、奇跡を起こすことなんだと思う
こうして私が生きていることは
勝ち負けは全く関係ないだろうとは思う