以前ここにも書いた通り、目を閉じて見えるものをタイピングするという遊びをしていたのだが「これやってたらヤバいな、狂うかも」と思った。想像力の訓練にもなるだろうが、登場人物に意外な行動をさせて楽しむには、起きている自分よりも半分寝ている自分の方が向いていて、それをやろうとすることはひたすら現実の自分を無視することだったからだ。キャンバスの前で眠り見た夢を絵に描き移したダリのやり方にも似ているような。「正直すぎる表現ばかりだと自我が壊れる」と村上隆も言っていたが、一人静かに狂っていて何が悪いのかとも思う。正気とは社会的な意味しかないのである。だが狂いながら静かに日々を送るというのは難しい気はする。
前回坂口恭平のアウトプットのわかりやすさについて軽く触れたが、当然内容が単純ということではない。彼は独立国家の総理大臣であり、自殺者ゼロを本気で目指している。理想を現実にすることは普通は困難と思われるが、坂口の場合その理想と実現方法が大変わかりやすく説明される。元々彼の本は『ズームイン!服』とcakesで一時期連載していた日記体の小説しか読んでいなかったが、近年noteにて躁鬱大学や、お金の学校などのテキストを上げているのを読んだ。全て読んだ訳ではないが「現実に想像したことは現実である」という思想そのままに何でも(国まで)作っていく姿が眩しかったし、癒す方法をわかりやすく説明しているのが凄いと思った。坂口が記述する登場人物が実在するのか、起こる出来事が事実かについては、実在人物、明らかに起こった出来事と、彼が幻視した人物や出来事が交じり合っているんだろうと思う。それが日記の体であっても、何も悪くない。生きているのが楽しくなるような、とても人に優しい世界が描かれていた。
人に優しい世界といっても、優しさや幸福の基準が独りよがりではディストピアになりかねないし、それを強いてくるのは独裁者だ。特に幸福などは、本人が本当にそう思っているのか、社会に思わされているのか自分ではなかなかわかりにくい。だが坂口恭平は「誰でも理解できる形」で幸福を表していると思った。それは明瞭な文章から伝わってくるし、スマホで撮った写真をパステルで描いた絵を見ても、躁鬱病の薬を服用していた頃には気分が落ち込むので外に出られなかった夕刻を克服し、自分の畑で野良猫を抱いて泣きそうになっている自撮り写真を見てもわかる。この人を殺してはいけない。いわゆる人たらしだろうが、私は信頼している。いのっちの電話で死にたい人の声に完全に応えられないことに凹みつつ、公にすることで行政機関とも活動を繋げ、自身はしばらく休むというツイートを見て、正直ホッとした。酋長は目の届く範囲だけ守り、生き生きしていて欲しいと勝手に思う。
私は妻と出会うまでは、自分を消耗させる一方だったと思う。無為に自分を喜ばせがちな性分も、その傾向に拍車をかけた。だが恋愛結婚生活の中で、体も心も少しずつサステナブルに扱えるようになってきたような気がする。また最低な自分ですらいい人として扱われると、私にも他者を喜ばせることができると思えてくる。他者にも最低なところはあるだろうし、純粋であれば良しとする大人は大概愚かだと思っているので、基本的に多くの人にとって全然優しくはないのだが、どんな人であれ困っていれば助けたいし、持続可能性を高める方向に人生の楽しみ方を考えていけたらと思う。その際には相手の脳内を少し混沌とさせるかもしれない。汚染と言われるかもしれない。だが喜びは混ざり合いであり、混沌は自然に向かうことだ。狂気もより自然に近い状態ではないかと思う。酔っていようがなかろうが、自分の書く文章はまだ嫌いではないから、狂わない為にも日々のことを書いて公開していくだろう。自分をただ消耗させていた時の経験は、体を張った取材のような感じがする。誰もが一つは物語を書けるわけで、省略や忖度はせずそのまま書くのが面白いと思う。酒乱の日々、していた仕事や思ったこと、巻き込まれた人々のこともいずれは仮名で書くのかもしれないし、やはり書かないかもしれない。日々SNSなどに思いつきで書くことが全てであり、ある日突然終わる。それでもいいと思う。