もう整理の文章はやめると書いたばかりだが、早速撤回である。映画の制作まではまだ準備が要るし、どうやら私にとって整理の文章を書くということは、排水溝から水垢を取り除くように、毎日意識する思考の周辺にある放ったらかしの概念から夾雑物を取り除き、ぴかぴかの本質が目に入る状態にしておきたい、そういうことらしい。自分がステンレスに見えている部分も、願望からくる水垢に過ぎないかもしれない。そんな習慣を公にするのは、点検の点検の為というより、誰かの水垢も一緒に落とせたらと願っているからである。思考の整理自体は哲学ではなく点検だが、点検すること自体は哲学的なのではと思っている。哲学すればいいというものでもないが。
運命と偶然の話
運命には逃れられない大きな物語のような印象があるが、実際に語られる運命は私的で小さなものである。こじつけることでどんな現象も物語の材料にできる。運命が必要とされるのは、不条理な出来事に遭遇した時だ。「だからこうなった」という因果を見出すことで自分を納得させようとする。ある意味現実を理解しようとした結果でもあり否定はしないが、どんな現象も偶然起きたことに過ぎないと思う方が、結果的に救われると思う。少なくとも私の場合はそうだった。
また個の運命とは「いつどこにどう生まれた」という最初の偶然による固有性が、その後に影響し続ける様を指すのだとも思う。最初に偶々そうであったことが、意志とは関係なく生涯に渡って行動に干渉してくる。だが命の運びには、個の意志による選択も含まれている。最初の偶然による固有性の影響は避けられないかもしれないが、自認する固有性を今後の選択の基準にしないことで、より積極的に運命から離れていくことはできるのではないか。つまり自由に生きられるのではないかと思う。
新しいことを始めるのに歳は関係ないとか、やることにやりたい以外の理由は要らないとかいうのは、私的な運命から自由になることを肯定しているのだと思う。出会う現象を全て偶然と見なすことで運命の干渉を退け、未知のときめきのようなものを感じていられる。「だからそうなっている」という文脈を一旦無視することで、現在も過去とは関係のない偶然として見ることができ、未来も見える範囲の外側にあるものと確信できる。既に現実にある問題の解決にはならないが、現実を生きていく上で、それは希望といえるのだと思う。
やりたいことがない時というのは、約束や要請による「やらなきゃならないこと」の他に、自分が思う自分らしさ、自分を物語る上で必要な自己同一性に捕らわれている状態でもあるだろう。きっと死ぬ時の後悔も、社会的な自己への固執に原因がある。行動に責任を取ることとは別に、心の在り方を自由に保てなかったら、何もやりたくならないだろう。心には可変性や可塑性はあっても、同一性は殆どない。少なくとも内面では固有性を無視した方が後悔はないだろう。自分という意識もない方が気持ち良くいられるし、自己同一性は失くして自分自身が偶然になりたい。なりたいというか、実際自分は偶然の集積である。そして出来るだけ前の自分と違っていられたらと思う。同一性を極力否定しながら生きることで、運命に抗っていくのである。文にするとかっこいい気もする。