私が「仕事」を嫌いなのは、それが成されなければならず、基本的に間違えてはいけないからだ。達成できなかったり失敗した時に責められるのは辛い。また先に「正解」が規定されているところもしんどい。毎回同じ事はできないのが自然なので「間違えてはならないこと」を続けていると、多かれ少なかれ心が死んでいく。嫌なものである。正解を求められない仕事は、まだそれがないところにしかない。いきなり掴めるものでもないので、反対側から見てみるのもよいかもしれない。
できなくても責められないし楽しめるのは、あくまで無目的な表現だと思う。自分や家族の日常を整えたり、子供に教えたりするのも楽しいが、それらは生きていくのに必要な事だし、自分にしかやれない事でもない。自分が限定的な存在であるゆえに固有のものになる行為が表現である。議論や問題提起を目的にすると間違えられなくなるので、無目的がよい。ただしたくてするというやつである。
個人の知識や経験は限られているし、発想の最初は倫理とは関係がない。表現は尺度のないところから生まれるので、大概何かを間違える。間違えた結果他者を傷付けてしまったらその責任は負わねばならないし、反省した方が建設的だ。他者の批判に開かれている必要もある。だが表現には間違える自由があり、無責任に始められるのが何よりもよい。但しつまらないものは他者の時間を無駄にするので有害だ。他者を喜ばせられたら成功かと思うが、その場合も「正解」と思うのは自己満足である。
研究者や芸術家が偉いのは、高い能力と知識に裏打ちされた技術で仕事もしつつ、同時に問い続けているからだ。成果があっても「正解」に満足して問いが止まる事はない。まだ明らかになってない現象を解明したり、現実にない現象を出現させるには、実験回数が常人より多くなければならないだろう。人類の知的発展への寄与は結果でしかなく、満足しない姿勢とそれを支える知性、何より努力を厭わないほど自分が楽しめるものを見つけられた事が偉いのである。
ここまで書いてきてなんだが、そもそも社会では働かなくても誰もが生きていけるべきだと思っている。最初は勝手に参加させられるのだから、生まれてきたものを生かす仕組でなければならない。その基本がまだ成されてない社会において、政治について考えるし、意見や感想を述べ、投票までしているのだから、私もその点では偉いではないか。誰もが本当に生活が保障されていれば、自分以外の無数の当事者の声を聞く余裕も出てくるだろうし、余裕が出ればやりとりや議論の内容も、今よりは改善される気はする。国民には生活費が支払われ、直接民主制が行われるのだ。
そんな夢みたいな話は置いておき、働かなくても生きていけるのを理想とする私が「仕事」をしたくない理由や、例の如く表現とはみたいな話をつらつら書いてきた訳だが、ではどうするのかというと、ただしたくて表現する時間を増やしていければと思っている。大学生活で借りた借金の返済が今月で終わる。17年もかかったので、ちょっと解放感がある。だからという訳ではないが、毒にも薬にもならない思考の整理を上げるのはしばらく止めようと思う。これからは日々の記録と生活と、映画を作る。ここでいいねと投げ銭で得たトークンは、現在のレートでは¥1,427らしい。こんなものでしょう。これまで読んでくださった皆さん、有難うございました。