前回「文章を書くのは点検の為」と書いたが「自分が理解する為」という方が近いなと今朝、トイレで思った。色々なことをわからないまま死ぬのが嫌で、せめて基本的なことはわかりたいと思っても、日々直面する当たり前とされていることや感覚がぴんとこない。私の共感力の乏しさに起因するのだと思う。だから共通の知識である言葉をまず整理しようとする。結局腑に落ちない場合も多いし、説明してみるだけだとつまらないが、自分はそう捉えているのか、ということはわかる。言葉にできないものを書いてみることもある。それは少し面白いので、理解より創作に近い。ないことをあるかのようにではなく、まだない(と思われる)表現をしてみる。だが自分が理解する為だけに書いた文章では、思い付きや無意識の「こう思いたい」に沿った屁理屈にもなりがちだ。しかも後で否定したりもする。否定する為にする整理なんて、相当性格が悪い。この時点でトイレから出てだいぶ経っているのだが、今になって少し怯えているのは、本当は自分は物事をわかりたいのではなく「そもそもわからないものであるということにすることで、わからないでいてもよいことにしたいのかもしれない」ということである。ひらがなが本音っぽい感じで怖い。だが無為に時間を潰すのは好きなのであながち否定はできない。これも言語化の沼というやつなのか。
最近、固有性から自由になることの他に、理解と共感について考えることがある。現象に対するものと、他者に対するものでは違ってくると思うが、日常ではほぼ同時に直面しがちだと思う。理解には先に書いた通り自己目的的な面があって厄介だし、共感は元々は意図なく発生すべき主体のないものである気がしている。何を言っているのだろう。ともあれどちらにも「そう思いたい」という気持ちが容易く入ってくるので、気を付けていなければならない。私の共感力のなさは、他者とは完全に理解し得ないし、完全な共感は起こりえないという思いから来るのだろう。生まれてきた条件の違いがまず完全な理解と共感を阻害する。それは悲しいことではなく、そういうものだと思っている。他者に対するもので言えば、平和に生存する為にある程度の理解は必要だが、共感は必要かという疑問がある。共感なくして真の理解はできないとも言われているが。この問いは結構大きなものであり、今後も考えていくと思うが、ズレてても勘違いでもいいんじゃない?という気持ちがある。今回は好きなものの共有について書いてみる。理解も共感も知識の共有が必要であり、他者と共有する知識の中で、最も差異が明らかになり、個人的なのは好きなものであろう。
好きの説明は難しい。夢中になって作為から離れている様子や無意識の現れといった状態や、意図を離れた人工物の経年劣化が作り出す模様など実物を見てもらう方が早い。一言でいえば自然な状態で尚且つ面白いと思えるものなのだが、そんなものは誰にでもどこにでも見出せるので、好きなものを訊かれるといつも悩む。そもそも好きってなんなのか、好きな状態というのは他者も自分も同じなのか、答に値するものを答えなければならないと思う。昔は好きだったが今は好きではないものもあるし、その逆もある。サカナクションの「アイデンティティ」を連想したりもする。全然嫌いではないのだが、連想で出てきたものを好きなものとして挙げるのは何か違う気がする。歌詞には親しみを覚えるし「夜の踊り子」を繰り返し聴いていたこともあるけど、もっと他にぴったりくるものがあるだろうと思う。親しみがある好きと、憧れとしての好きと、答として最初に挙げるならどちらがいいのか。電子音楽的な部分でいうとポリシックスやチボマットの方がそれぞれ別の方向からより好みに近い気がするし、山口一郎よりアンディ・パートリッジやイアン・カーチスの方が憧れが強い気がするし、好きの中から最初に挙げるのは、どの軸に沿った何がいいのか悩んでしまう。全く浮かばなくても途方にくれるのだが、答える前に問いが出てきてしまう。今、自分は好きということについて、どう考えているのか。
大概、訊いた方は訊かれた方の好みが何となく知れたらそれでよいのだろうと思う。質問する以上は会話しているということだし、会話のネタとして互いの共通項を探しているだけであることが多い。悩む前にどういう意味で好きなものを訊いているのか尋ねることで範囲を狭めてみるか、色んな面で好きと言えるものを挙げるかすれば、まず大丈夫だといえるだろう。好きな〇〇といえば、好きな音楽である。挙げてみると、坂本龍一から出る旋律や実験精神、知久寿焼の描き出す情景、遠藤賢司をつき動かす衝動、坂本慎太郎が示す諦念とかである。女性でいうと寺尾紗穂の知性と慈しみ、青葉市子のどんな世界にも馴染む声、中村佳穂から溢れる喜び、ほか昔の歌謡曲の歌手たちの顔が浮かぶが、人柄や外見の印象が邪魔して、今までの自分が純粋に彼女たちの音楽を聴けていたのか、自信がなくなってくる。最近知った中ではリナ・サワヤマの愛されるべき自分の誇示は好きだと思ったが、音楽についてはまだよくわからない。ビョークのことを忘れていた。彼女の音楽は変だ。あふりらんぽの加速度も好きだ。思い出した今聴きたくなったのはDODDODOの方だったりする。オシリペンペンズ…GEZAN…自覚的に馬鹿であることや、まっすぐなメッセージがあるものは好きだし、少し憧れもある。逆にエイフェックスツインの狂気や退屈さも好きだ。基本的に共感より、違和感が好きだ。
言葉で好きな点を端的に挙げることはできるが、何故自分がそれを好きなのかを説明するのは難しい。挙げられた性質は、私がそう思っているということに過ぎない。憧れには、誰が見ても明らかに凄いものとは別に、一方的な思い込みもあるだろう。なぜそう思っているのか、なぜそれが好きなのか、きっと理由は必ずあるのだが、自分が過去どう生きたかにも関わっていそうだったり、また自分の理解や共感を超えたところに理由があったりして、うまく端的に説明できない。自分には到達できないところから見た景色を、自分にも感じられる形にして見せてくれるから好きという場合もあるが、それでは説明になっていない。体が反応し脳に快楽物質が出ると言ったところで、その様子を直接見せることもできない。好きな部分を公言して、他者からヒントを得るのもよいかもしれない。好きの共有を試みるのである。だが自分で何かを作る方が、好きな理由を明らかにしやすい。作ることは否が応にも無意識が出やすいからである。私の場合は、つげ義春的な映画が出来たことがある。孤独と無為を生活に溶け込ませる様子が、社会に適合できない自分と重なった。つげ義春の漫画は、不器用ゆえの貧乏や、孤独を肯定しているから好きだ。説明はつまらないものである。
自分がどんな人間であるかは関係ないと思うが、一応身の安全を確保できていると思っている状態では、安心感はあまり好きにはつながらない。未知の部分、わからない部分がないと好きではいられないと思う。安心していなければ好きを探す余裕もないのだが。だから私はわかる感じ、共感を嫌がるのかもしれない。先日観た映画『ミッドサマー』に出てきたホルガ村の人々が、痛みや快楽や死を共感してみせるのも、自分だったら嫌だなと思った。社会的な自己同一性を失くすこと自体はよいと思うが、共同体の中に一体化するのが嫌だった。完全に自然と一体化した人間社会というものがあるなら、嫌ではないかもしれない。でも人間が作る以上、その集団は絶対に自然そのものにはならないと思っている。
理解とは、原因と結果の間を読むことだ。一方共感は、説明がなくても非言語的な物語を瞬時に読み取っている。読み取るという点では、共感も理解も似ている。共感の場合は、その状態を自分も同じように感じられるかという、精神的かつ肉体的なものである。理解と共感を同時に語ること自体が間違っているのかもしれないが、私は理解したい(と思っている筈)が共感力が弱いという自覚があるので、理解の際には共感を退けがちなのである。共感が理解した気にさせる危険性もある。現実をわかる形にしてわかった気になることへの拒否感と、そもそもわかる形にしないとわからないという意識もある。異質なものの存在は知るだけでよいのではないか。共感できなくても存在を認めることはできる。表現には感動があればよい。経験上、熱量さえあればわからなくても感動はできる。そして感動したという事実さえ大切にできれば、互いの存在を認め合うことや、わからないまま受け容れるということにも繋がる気がする。理想に過ぎないのかもしれないが、平和に生きていくには理解も共感も限定的でよく、異なっている当事者を尊重する意識さえ持てればよいのではないだろうか。私は基本的には、自分や平和な社会が攻撃されたり被害を受けたりしない限り、他者の在り方を尊重するし邪魔はしない。だから私の在り方も放っておいてほしい。
終日ノートPCが、チェーンソーのような音を立てている。ファンの不具合の為である。分解掃除をしても、温度を下げても、機能を制限したり、ファンの動作をパッシヴに設定しても鳴り止まない。環境音として慣れることもなく、音楽を流しても無駄である。終日機械の動作音と共に働いている人がいたら、この気持ちは共感されるのか、理解されるのかなどと想像しつつ、屁のような文章を書き終わる。