私は社会不適合者だが、それは社会に参加するアカウントについて
守ったり価値を高めたりすることが無理だったからである
誰に怒られてもどうでもよかったので、無理な話ではあったが
不適合者も包摂するような社会ならどうだったろうとは思う
癒しとは、ストレスなく生きられるだけでなく
なんらかの喜びを感じられる状態でもあると思うが
不適合者としての私が癒しを感じる時は間違いなく
ただの生物でいられる状態であった
ストレスがない=喜びを感じるということである
自分が誰でもなくただ今生きているという時
「成田生」というラベルはどうでもよくなり
社会的な自己同一性を保つ必要がない状態である
温泉に入っている時、動物を撫でている時
きっと堆肥に手を突っ込んでいる時も癒されると思う
妻と家に居る時も限りなくそれに近いが
他者がいると自動的に「私」が発生してくるので
やはりひとりでいる時の方が癒しは起こりやすいと思う
互いの状態を了解している関係性であれば
一緒に癒しを楽しめるのだと思う
今日「Spectator:土のがっこう」という雑誌を読んだのだが
土について学んだら、堆肥を作りたいと思った
死んだものや不用なものを集めて堆肥を作りたい
私もいずれ不用なものになるので嬉しくなる
自然の循環に入る、近づくことに喜びを感じる予感しかない
つまりはわくわくすることであり、それをやっている姿を想像すると
やっぱり癒しを感じるのである
早速農業に携わる知り合いに連絡したら、一歩前進した気がする
何にも決まってないけど、ふかふかの堆肥を作りたいのである
そのまま癒しに向かって突き進みたいとも思う
家族と相談しつつだが、きっといい感じになりそうな気はする