子供の時から自分の外側にあるものは皆友達だと思っていた
友達に必要なのは自分と違っていることだけだった
別に求めなくても違っているので皆友達だった
だが好奇心を誘う対象を友達と呼ぶのではないらしい
自分の思想や嗜好に近いとか、一緒にいて疲れないとか
偶々情緒的なタイミングで近くにいたとかが要るらしい
そういう社会的な条件はよくわからなかった
同じものが好きとかはまだわかるのだが
自分と殆ど同じ人がいたとしたら、気持ちが悪いし嘘だと思う
共通点は今生きているということだけでよい
未だに殺しあう間柄でさえなければ友達だと思っている
もし攻撃されても驚きはするが友達である
思想や嗜好が全く違っていても友達である
理解できなくても友達だと思っている
津軽弁では友達のことを「けやぐ」と言う
自分では使っていなかったが、ネットが使えるようになって調べてみたら
語源は「契約」らしく、何てしょうもないんだと思った
社会的に「友達」という関係を結ぶにあたって
口なり身振りなりで関係を壊さないという契約を結べると
信用できる人だけが友達なんだということなのだろう
津軽人の疑い深い気質が現れているのかもしれないが
改めてしょうもなさ過ぎて情けないと思う
自然環境が厳しすぎて、自然に起こること全てを
忌避し過ぎたのではないかなどと疑ってしまう
酒ばっかり飲んでいるし
津軽弁でひどく気に入っている人のことは「めごこ」と言う
可愛い、愛するものに「こ」を付けて親愛の意味合いを添えたものだ
これにも「自分を攻撃することのない自分より弱いもの」だけ可愛い
といったニュアンスがあると思うのだがどうなのだろうか
津軽弁で「自分と違っているが好ましいもの」を表す言葉はあるのだろうか
方言でなくとも、自分と違っているものを好ましく思う気持ちは
好奇心なんて言葉に収まらない、自然な敬愛の情だと思うのだが
人類愛とか言われると「人以外の動物の方が好きだし」とか言い返したくなる
日々目にする風景、聞こえてくる音、交わされる会話など
私は毎日毎秒それぞれ映画のように楽しんでいる
私が興味がある対象は他者の主観であり
それは「どんな映画みてるのか」に興味があるからである
だがそうやって呑気に楽しんでいられるのは
私がシス男性だからかもしれないとは思う
比較的ノイズがないし暴力も振るわれない
女性やマイノリティ的な要素を持つ人にとって
社会における生活は不快なものに満ちている
私の目標は皆がそれぞれ自分の映画を
呑気に楽しめている状態なのだと思う
津軽弁の語彙にマイノリティや他人本位的な感情を表すものはあるのだろうか
ともあれ青森で生まれ育った者の多くが、東京などの方言の使われない土地に出るが
方言では表せない思いを持つ者にとっては必然的な行動のようにも思える
だからただ無知なだけなのかもしれないが、私は津軽弁があまり好きではない
(関係ないかもしれないけど↓)