神社では願い事はしないのが習いである。賽銭箱の前で手を合わせる時も、心の中で「今日は寒い」などと言っている。妻は願うので「彼女の願いを叶えてください」と思ったりはする。祀らわれているものの縁起を知ろうとしたこともあったが、知っても「ほほお」と他人事のまま覚えた端から忘れてしまう。境内に生えている大木や、古い建物の方に意識が向く。
古い物が新しかった頃のことや、自分がその木になっている想像をする。周囲を早回しで動物が行き来する中、自分が百年以上存在している気になる。すると何か問題を抱えていても、大したことではないように思えてくる。問題は解決しなくても、前より気楽に向き合えるようになっていたりする。現実逃避とも言えるが、想像している状態も私の現実である。
物に自分を重ねる想像は、多分誰でもやっていることだ。倉庫の隅に放置されたぬいぐるみにさみしいと思う。また感情移入し易い形でなくても、ある程度は重ねることができる。例えば壁や道路になってみると、作った人や作られた後で関わったものとの時間を想像できる。長い目で見れば物質は変化し、循環するものなのだろう。固定は一時的なものであり、不変・不動を求めるのは不自然な願望だなと思う。
物ではないが祀らわれているカミサマは、それぞれの形で昔から変わらずにある。変わらないからわかりやすい、極めて不自然なものである。だから凄い、偉いのかもと思ったりはする。神仏習合とかで位置付けが変わったりはあっただろうが。私はなんだかわからない状態のまま変わり続けていられる方が落ち着く。概念を目指している訳ではないので、それでいいのである。