面白い物語は意図的に作られるのではなく、事実という偶然の中に見出されるものだ。面白い=普遍性があるでも構わない。だから見方が重要なんだと唐突に思ったのだが、似たような言説は昔どこかで読んだ気もする。
ともあれ面白い物語の語り手には、偶然の中に物語を見つける能力がある。また見つけている時「自分が感じたこと」を忠実に再現する能力もある。語り手を志す人は能力を意識していることだろう。だが志さない人にとっても、物語は重要だと思う。
理不尽な苦しみが自分に起こった時、最初は衝撃に揺れるだけである。だが時間が過ぎるにつれて「自分が感じたこと」を言葉にできるようになり、ある程度言葉で整理される頃には既に理不尽な体験を自分に取り込み始めている。やがて体験そのものが「今の自分」に欠かせないものになっていく。
衝撃が大き過ぎて意識すら持てないこともあるだろうが「自分が感じたこと」を言語化する試みを繰り返すことで、自分を客観的に捉え経験を受け入れられるようになる。試みは自発的にも、また他から与えられたきっかけでも行われ、その変化の経過が物語になる。「理不尽の受容」が描かれるとしたら、当人にとって切実な物語だ。
人が生きていくとは理不尽な経験を物語にすることなのではないかと思う。偶然を受け入れるには道理に合わないことに対する解釈と、自分に起きた変化の自覚が要る。むしろ生きていく為に動詞としての「物語り」が要るのではないか。
理不尽な出来事自体には合理的な説明がつけられないので、だからこうなったと説明するのは難しい。理不尽は理不尽のまま、どう受け入れていくのかが物語になるのである。例えば心の中でもやもやしていたものが別の体験がきっかけで気にならなくなった、ということがある。もやもやの原因となった理不尽に全く関係がない出来事でも、心の形が変わることでバランスがとれ気にならなくなった、という話。時間が解決するというのは、新たな体験が増えることで理不尽の捉え方が自然と変わっていく、ということだと思う。
思えば祟りや祓いというのも、理不尽を受け入れる為に発明された「仮託する」という技術だ。儀式を行うことで、経験を受け入れ苦しみを手放す。形式的なものに落とし込むことは、意識的な物語の活用なのではないかと思う。
道理は人に理解できるものに限られるので、理不尽は人に理解できない自然の範疇にある。人はまた自然でもあり、しょっちゅう理不尽に出くわしている。起きた理由は偶然だが、見方を変えれば自由に解釈できるということでもある。解釈することで人の道理も変わり得る。
そして何より理不尽に直面すると、人自身が変わる。理不尽の解釈と「物語り」により偶然を受け入れる。そこで使われる解釈が誰かの作為によるものか、出来事と向き合って自身が編み出したものかで、変わり方は異なる。自分で見つけた方が、より自然に近く変われると思う。自分の内外を観察して見出す物語は、死ぬまで完結することはない。